0914_夫や父として「私には妻や息子を愛する愛はありません」と宣言する人

Contents

愛の限界

息子や嫁さんと接していて自分の愛の限界に気づくことが多いです。愛というとなかなかイメージにしくいですが、相手への深い関心や思いやりや相手の立場に立つなどのことです。少し大げさに言えば相手のために犠牲できるか?ということが愛の一部だと思っています。

もちろん、記念日などに花を手向けるなどのことも含まれるのかもしれません。しかし、ほとんどは非日常における行動ではなくて日常の本当に些細なことなのだと思います。例えば、眠いけれど洗い物を終わらせておこうとか、洗剤の補充をしておこうとか、そういことの日々の小さなことにおける相手への思いやりの積み重ねなんだと思います。

体調が悪いときとか忙しいときとか

きっと自分の調子がいい時や時間の余裕があるとき、そういった行為をするのは比較的容易です。しかし、仕事のことが頭にあったり、自分の体調が悪い時は手を抜いて接してしまうことがあります。

手を抜いて対応する時とても申し訳ない気持ちになります。そういうわけで、冒頭に述べたように自分の愛の限界に気づかされます。夫や父として「私には妻や息子を愛する愛はありません」と宣言する人は、正直人としてやばい人でしょう。そんなことなら結婚もしなければいいのにと思います。

愛の基本は意志である

しかし、自分の意志で愛そうと思っていても、時に限界を感じることがあります。僕は自分に愛がないと感じるとき、先ほど人としてやばい人と書いたような言葉とともに神様に祈ることがあります。

「私には妻や息子を愛する愛はありません。しかし、あなたがともにいてくださるので、あなたの愛で愛することができます。」

もし、生けるキリストの愛を知らなかったら、きっと僕は自分が嫌いになって自暴自棄にでもなっていると思います。しかし、神が本当に助けてくださる希望を持っているから、本当になんとか結婚生活ができています。

相手を愛したい

今や3組に1組の割合で離婚するのが当たり前になっていますが、もしかしたら、多くの人が相手を愛せなくて苦しんでいるのではないかと思います。相手を愛したいけれど自分の欲を優先させてしまう。相手を思いやりたいけれど自分のことばかり考えてしまう。

聖書ではそれは罪が原因だと言っています。もし神に自分の欲望を優先させてしまうことを悔い改めて「助けてください」と祈り叫び求めるならば、主はそれを許してくださり、造り変えてくださると信じます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)