困難な経験
人は困難を通して成長するものです。また困難という経験そのものがその人の考え方や姿勢を形作ることも事実です。例えば、戦中戦後世代の方は「ごはんを当たり前に食べれない」という経験をされています。そういった体験をした方はきっと現代の飽食の時代にあっても、ごはんを食べられるありがたみを決して忘れずに感謝の気持ちがあると思います。
また、戦後世代と比較した場合、戦争の悲惨さを実際に経験した方のほうが「平和への渇望」の強さも深さもまったく比にならないと思います。実際に体験するということは、彫刻で彫られた木のごとく決して変えられることはないのです。
教会に行ける喜び
僕は信仰生活において、それほど大きい困難はなかったですが、あの時の苦労が今のマインドを完全に形作ったという経験があります。たとえば、僕は中国に3年間行った時、家の教会を7ヶ月ほど見つけることができませんでした。その間、教会に行くことができなかったのです。どうしていたかというと、母教会に週に1回説教の音源をデータで送ってもらい、自分1人で礼拝をしていました。
その経験によってどのようなマインドが形作られたかというと、「教会に行けるのは当たり前じゃない」ということです。それは実体験に基づく切実な渇望でした。兄弟姉妹がともに集まって讃美をし、説教を聴くことができるのは当たり前じゃないと思ったのです。
それから10年以上経ちますが、一回一回の礼拝が決して当たり前じゃないという態度で礼拝に臨むことができています。
教会に所属できる喜び
また、僕は母教会から離れないといけない状況になった時、新しい教会ですべて0からスタートしないといけませんでした。母教会では僕が小さいことから知っている方が多いのでコミュニケーションも楽です。
しかし、新しい教会での人間関係や奉仕や教会の色に慣れるは簡単なことではありませんでした。また新しい教会の方にとったら、どこの馬の骨かもわからないような僕をどう受け入れていいかもわからなかったと思います。
しかし、そういった経験をしたことで、教会で奉仕が少し困難だと思うことがあったとしても、このように受け入れてくださっていること自体が感謝だと思えるようになりました。
主とともに歩む経験
37年人生を歩んできた中で最も大切なのは「経験」だと思いました。それこそがその人のマインドを決定付けるからです。イエス様との関係も同じです。聖書の知識は大切ですが、それ以上に大切なのはイエス様と出会う経験であり、イエス様と日々歩む経験です。
頭の中の信仰に留めず、これからも生きた信仰生活を歩んでいきたいです。