1209_やらないといけないと思うとやりたくなくなる

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筋トレがつまらなくなった時期

なんでも「やらないといけないと思うとやりたくなくなる」ものです。僕は3年ほど前より筋トレを始めましたが「やらないといけない」と思っている時期が何回かありました。ただただ、メニューに従って重いダンベルを持ち上げることが無味乾燥のように思えて楽しくないなと思ったことがあります。

さらに自分が決めたルールのとおり実行できないと爽快な気分になるどころか憂鬱な気分になることもありました。例えば、前回よりも重いものを持ち上げられない、回数が落ちたとなると筋肉が成長していないと思いこんでしまい、やっていることがすべて無駄と思ってしまうことがありました。

自分が決めたルールをゆるくした

それから回数を減らしたり、いっそのこと数週間休んだり、メニューを変えたり試行錯誤してみました。ここ数か月は自然に「やりたい」という気持ちで筋トレに取り組むことができています。それは自分が決めたルールをゆるくしたからです。

決まったメニューをこなすのではなくて、その日に「やりたい」と思ったメニューをやりたいだけすることにしたのです。ある時はそれほど負荷がない腕立て伏せ、ある時は特定の部位だけしっかり負荷をかける、ある時は全体的に薄く負荷をかけるといったやり方です。

たとえ効率的でなくても

通常筋トレは週に3回ほど、それぞれ違った部位に対して強烈な負荷を与えることによって筋肥大が起こると言われています。ですので、それほど負荷のない腕立て伏せや全部位に薄く負荷をかけるやり方は筋肥大という側面から言えば効果的ではありません。

しかし、運動して爽快な気分になりたい、健康維持のために脂肪を落としたい、少しでも筋力をつけたい、あるいは現状を維持したいというようなルールで実行するようになってから筋トレが再び楽しくなってきたのです。

これは信仰生活も同じだと思います。「やらないといけないと思うとやりたくなくなる」ものです。聖書を読まないといけない。祈らないといけない。教会に行かないといけない。什一献金をしないといけない。と思うとやりたくなくなるのです。しかし、信仰生活の場合は自分が決めたルールをゆるくしても意味はありません。むしろ、やり方をミスればどんどん主から離れていってしまう可能性があります。

そういう気持ちが少しでもあったら、それは生きたキリストと生きる生活から離れてしまっていることが原因である可能性があると思います。僕は長い間そういった時期がありました。そういった時は素直にこのように祈ってきました。

「イエス様、私は今やらないといけないという気持ちから信仰生活を歩んでいます。あなたはいつも私の近くにいてくださっているにも関わらず、私があなたを追い出していたのです。そして自分が満足するだけの宗教的な生活を送っているのです。しかし、今あなたの前に自分の罪を悔い改めます。あなたは今も生きておられて、今日もこの干からびた魂に新しい命を与えてくださいます。」

主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩編23:1-6

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