一つの行為から神の御手を動かした
通読ではサムエル記に入りました。サムエル記上の一章は僕が大好きな聖書箇所の一つです。そこにはほとんど信仰生活で必要なすべてエッセンスが凝縮されているかのようです。不妊症であったハンナは苦しみの極限にいました。そのような時に彼女がしたことは「神に祈る」ということでした。この一つの行為から神の御手が動き、美しい神の御心の物語が紡がれていくのです。
そして、その祈りは普通のものじゃありませんでした。彼女の祈りは「心を注ぎ出す」祈りでした。言い換えればそれは真実な祈りです。建前の美しい言葉を並び立てるのではなく、信仰をもって自身の本音をもって神に近づいたのです。これが神の御心を動かす祈りです。
本気の献児
次に彼女は自身の自己実現を考えていませんでした。彼女は神様の恩寵にあずかり子供を授かります。しかし、神様との約束のとおり、乳離れしたタイミングでその子を神様に捧げるのです。これは現代のキリスト教会でに行われている献児式とは全く違います。彼女は本気の献児をしました。
普通に考えたら不妊症の女性に子どもが与えられたなら、その子どもを自分の人生の喜びの中心とし、その子どもの成長にかかわりたいと思うものです。しかしハンナは確かに子どもと離れなければいけない肉の痛みをもっていたと思いますが、彼女は神の御心のほうを見ていたのです。
犠牲が必要
サムエル記上一章にはそれが当たり前のように記載されていますが、これができる女性はほとんどいないと思います。ハンナは主を強く愛してやまないゆえに自分の楽しみがなくなることはいとわなかったということです。そして、彼女のこの決意と実行により、イスラエル全体の繁栄の礎が築かれていくのです。これは驚くべきことです。
ここからはっきりとわかることは、神の御わざを見るためには「犠牲が必要」だということです。現代の教会ではあまり犠牲は語られることはありません。なぜなら、それは信徒が聞きたくない話だからです。
犠牲は肉の痛みが伴う
僕自身は以前「犠牲は嫌だけれどリバイバルは見たい」という都合のいい考えをもっていた時がありました。しかし、そのような態度ではリバイバルどころか、教会での奉仕や自分の人生においてですら、神様の御わざをみることはできませんでした。
確かに犠牲は肉の痛みが伴います。自身の楽しみの放棄です。自身の自己実現の放棄です。むしろ、その先にある主にある喜びを見る人が信仰の人だと思います。その動機にあるのは「主を強く愛してやまない」ということです。誰でも自分の大切な人のためには喜んで犠牲を払うものだからです。