心がけていること
今日はCSの説教をする上で心がけていることを書こうと思います。一つ目は講義をしないように気を付けています。その理由としては聖書の御言は知識ではなくて霊的なものだからです。確かに教師には聖書箇所や解説などのテキストが与えられており、それに沿って説教ができます。それは伝達可能な知識のようにも思えます。
しかし、実際はそれをそのまま語ったとしてもほぼ間違いなく子どもたちには刺さりません。なぜなら、子どもたちは鋭く見抜くからです。
よりわかりやすく書けば、子どもたちはわざわざ言語化しないまでも「この人は口だけ」とか「言っていることとやっていることが違う」とか「霊的な命がない」などは容易に見抜くものです。いくら聖書の御言が素晴らしくても語る者が真実な心がなければ何も伝わらないのです。
準備をする前にすること
それは僕が子供の頃に感じていたことでもあります。また自分が説教する中で痛みを感じて教えられたことでもあります。説教するものは常に神様の前に正直で真実を尽くすものでなければなりません。これは自分を戒めるために書きますが、もし赦せていない誰かがいあるならその人は説教する資格はありません。また説教する内容が自分でできていないなら、その人も語る資格はありません。
聖書箇所によっても変わるかもしれませんが、そう考えると、そもそも、すべての説教者は語る資格がないということがわかります。だからすべての説教者は準備をする前にすることがあります。それは悔い改めです。またイエス様の十字架の血潮によって義とされることです。そうして、はじめて準備をする段階に入ります。
説教者が語る理由
説教者が語る理由は二つあります。一つ目は「神様があなたを通してでしか語れないことがある」ということ。二つ目は「神様が語りたい相手がいる(CSの場合は子供たち)」です。僕自身はこれまでCSの説教において、少ないくない失敗をしてきました。その多くは痛みを伴うものでした。その中を通らされたのは僕がいつも正しい位置からずれることがないようにとの神様の愛の戒めだったと思います。
聖書にはこのようにあります。
わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
ヤコブの手紙 3:1
これはCS教師は例外でしょうか?僕はそうは思いません。僕はCS教師である以上、もっと厳しい裁きを受ける可能性があります。なぜなら、この世界で最も重い神様の御言を語る奉仕に携わっているからです。