0706_クリスチャンホームの子供が神様がわからないというのはただの甘え

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クリスチャンホームの子供の悩み

多くのクリスチャンホームの子供たちには「神の存在が当たり前すぎて疑う余地がなく信仰というものがわからない」とか「キリストの十字架の恵みはわかっているし信じているが、劇的な救いの体験がない」ということに悩んでいるというのを聞いたりすることがあります。僕自身もクリスチャンホームで育ったので、同じような気持ちを抱いていました。親世代はビフォーアフターが明確な救いの証があるのに、自分にはないからです。

僕は小学4年生の時に洗礼を受けました。心からキリストの十字架を受け入れました。そして、自分の意志で洗礼を受けると決めました。これは僕にとっての初めての信仰告白です。しかしながら、それで僕の信仰が確立したのかといえば決してそうではありません。自分の信仰がアクティブになったのは、自分自身の意志で神を真剣に求めはじめてからだったからです。

洗礼だけでは満足できなかった

礼拝で賛美をする中で確かにキリストが生きておられることはわかる。また周りの人にキリストが働いているのもわかる。しかし、長い間、僕にとっては「力のないキリスト」だったのです。洗礼を受けて罪を赦されたのはわかるが、罪に打ち勝つ力が自分の中にはなかったのです。しかし、高校生の時に様々な問題にぶち当たる中で、「本当に神様がいるならどうか出会ってください」と祈るようになりました。

求めるようになってから、すぐに神様に出会ったわけではありませんが、必死に祈り続けました。その過程で、神様が働かれ、教会のイベントやキャンプなどで、深く生きたキリストに出会うという体験をするに至りました。

そのために、多くの方が祈ってくださっていたことは間違いありません。しかし、「僕自身」が求めなければならなかったのです。神様は僕たちが思っている以上に、僕たちに出会いたいと思っておられます。なぜなら、十字架にはりつけになり死んでもいいと思うほどに愛してくださっているからです。

求めること

ポジショントークと思われるかもしれませんし、非常に厳しいことを書くかもしれません。しかし、「すべてのことには時がある」のを前提としたとしても、「神様がわからない」というのは甘えと言い訳にすぎないと思うのです。

もし、本気で神様に出会いたいと思うなら、一人部屋にこもって1時間祈ることから始めるといいと思います。スマホを触るのをやめて聖書を読んだり祈ったりすることを通して神を求めることをしたらいいだけなのです。あるいは、山に籠って祈ることをしたらいいと思います。時には断食祈祷をするために、一人でどこかに行くのもいいと思います。僕は決して誇るつもりはありませんが、実際にそれらをして神様を求めてきました。

変人かと思われるかもしれませんが、僕は日本にいた時も中国にいた時も、人気のないところに行って一人祈ることをずっとやっていました。

求めないということは

もし、そこまでしたくないというなら、それは本気で神様に出会いたいと思っていないということだと思います。例えが世俗的で恐縮ですが、好きな人ができた時のことを考えたら、そういった行動が何も不思議でないと思えるはずです。求めるものには喜んで犠牲を払うものです。神様は求める者に必ず報いてくださるお方です。率直に言えば、求めないということは、信仰がないのと同義です。なぜなら、聖書には神様は求める者に必ず出会ってくださると多くの記載があるからです。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
エレミヤ29:11-14

おっさん
■神は必ず出会ってくださる

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