主の力
ここ数日、主に立ち返ってから自分の考え方が変わりました。それは主にある平安と誰も奪い去ることのできない喜びが心に溢れているからです。現在においても、はたからみたら見えるところの現状はよくありません。また現実も厳しい状況なのですが、霊的な体験として主が確かに共にていくださると実感、体験する時心が変わります。
そして自分の考え方が変わります。すると言葉も行動も変わります。これはまったくもって主のなされたことであり、主の力です。だから主だけを褒め称えます。
自分が帰るべきところ
確かに主は開放してくださいました。なぜなら、僕はクリスチャンだったらこう反応すべきだとかこう考えるべきだとかこう祈るべきだといった外からの要求に反応して自分を作っていたからです。クリスチャンだったら不信仰なことを言ってはいけない、書いてはならない、こうあるべきとう人物像に自分を当てはめようとしていたのです。
しかし、それはもちませんでした。遅かれ早かれ限界がきて崩れてしまったのです。僕は自分の弱さを見た時にはじめて自分が全然信心深いクリスチャンではないということを知りました。それにっ絶望もしました。そして、主と距離をとりたいとさえ思いました。
その弱さを直視した時、自分が帰るべきところは主の十字架であり主の恵みだと知りました。それが僕のすべてだったのです。
心にふっとわく小さな言葉
僕は今回の件ではっきりわかったことがあります。それは確かに悪魔とかサタンとか闇の世の勢力が人に対して攻撃をかけてきているということです。攻撃は非常に簡単で些細な言葉から始まります。心にふっとわく小さな言葉です。それが不信仰と結びついて実を結び放っておくとどんどん根を下にはって、いよいよ自分をがんじがらめにしてしまうのです。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
エペソ人への手紙 6:12
僕は今回それを経験しました。そのせいで、本当に主に希望をもてなくなってしまったのです。
敵を知ること
誤解を恐れずに書けば、聖書66巻を信じるクリスチャンは悪魔とかサタンとか悪霊とかを語ることに抵抗を覚える必要はないと思いました。なぜなら、聖書にその存在がはっきり書かれているからです。敵を知り己をしれば百戦危うからず。己は弱いのです。聖霊によって勝利するほかありません。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
使徒行伝 1:8