1108_人間は自分が裁くに足る人間であることを証明するために、人間的な目で見た時にその人を裁くに最もな理由を見つけるのが得意

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教会生活を送っていると

クリスチャン生活、特に教会生活を送っているとどうしても人が気になることがあります。そんなこと思いたくないにもかかわらず「あの人はあーだ」とか「この人はこーだ」とか心の中に気持ちが湧き上がってくることがあります。

こういった気持ちが沸き起こってくるのは「人間だから当然だ」と思ってしまうのは聖書の原理原則に従った歩みではありません。なぜなら、人のことをどうのこうの言っている時点で、その人は人を裁いてしまっているからです。

人は裁くに足る理由を見つける

僕はこのように人を裁いてしまうことがあります。普段は特に何も思っていない時でもふとした問題がきっかけで「あの人に言われたくないわ」とか人の信仰の態度とか方法などを通して人を裁いてしまうことが最近あったのです。

しかも、恐ろしいことに、こういう時、人間は自分が裁くに足る人間であることを証明するために、人間的な目で見た時にその人を裁くに最もな理由を見つけるのが得意だと思います。

そうなると、心の状態は最悪の状態になります。心に悶々とした気持ちを抱え、らに自分でも制御できない謎の苛立ちや怒りが心の中で延焼、類焼していくのがわかるのです。

御言によって解放される

ここ二日間くらいは、本当に心がしんどかったです。しかし、何とか一人の時間を取って祈って賛美して感謝することをしました。

それでも心の中で様々な思いが沸き起こってきます。このような時、悪魔は僕の最も弱いところをついてきます。ここを突けばこいつは弱るということを知っているのです。

それでも声に出して賛美しました。また余計なことを考えないために早く寝るようにしました。そうして、翌朝聖書を読んでいた時に聖書の御言がやってきました。それはこの御言です。

あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。
ヨハネ21:22

左右下を見ず上を見る

神様に「あなたが他人のことをとやかく言って何か意味があるのですか?ゆったところで何の意味もないでしょう。あなたは私に従ってきたらいいです。それだけです。」と言われた気がしました。

本当にその通りだと思いました。僕がその人のことをどうのこうの言って何の意味があるのでしょう。僕はただただイエス様だけを見上げて従っていけばいいだけなのです。左右を見て人を裁かず、こうべを下げて自己卑下せず、主を見上げる決心をしました。

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