銭湯は祈りの場所
先日久しぶりに銭湯に行きました。ここは数ある銭湯の中でもすべての条件を満たした一番お気に入りの銭湯です。個人的にはただの銭湯ではなく、祈りの場所にもなっています。数年前に居住地をこっちに移してから、何か問題があった時や困難に直面した時、あるいはぼんやりとした不安がある時などは、いつもこの銭湯で祈っていました。
今も色々課題があるし、自分の弱さや欠点があらわになってきているので、今こそゆっくり祈らないとと思わされて行ってきました。
祈りのルーティン
まず、体を洗ってまず半身浴をします。その後、ジェットバスで肩まで浸かって一気に体温を上げたところで、激冷の水風呂に浸かります。もう凍え死ぬといったところまで体が冷えた状態で、誰もいない露天風呂に行くのです。
体を洗う作業意外を4回ほど繰り返して、約2時間くらい銭湯で祈りを楽しみます。なにも、露天風呂のときだけ祈るわけではありません。気持ちはずっとイエス様に向かっているのです。言い換えれば、イエス様と一緒に銭湯に入っている感じかもしれません。
そもそも大浴場にいる人も少ないし、あちこちから水の流れる音が聞こえているので、目をつぶって口をもぞもぞ動かしても誰も気にしないのです。
濃密な時間
僕は僕自身でもまだ自分を理解できていないのですが、なぜか1人の時間がないと窒息しそうになってしまいます。イエス様に出会う前は1人の時間は寂しさと孤独そのものでしたが、イエス様に出会ってからは、なおのこと、1人の時間が好きになりました。
それは、一見、1人でいるように思えても、心の中にはイエス様が共にいてくださるからです。観念上のものでもなく、思い込みでもなく、妄想盲信でもなく、心から湧き上がるイエス様が与えてくださる静かな喜びに満たされるからです。
誰もいない露天風呂で青い空に浮かぶ夏らしい入道雲がゆっくり動くのを見上げながら、とっても幸せな時間を過ごすことができました。
友となってくださったイエス様
こういった時間を過ごして思ったことがあります。僕個人は、イエス様を友達とみなす表現は諸刃の剣だと思っていて、捉え方によっては信仰態度を左右してしまうほど割とセンシティブな表現だと思っています。
ただ、イエス様は神様であるのに、こんなにも親しく接して交わってくださるということを体験すると、やはりイエス様は友なき者の友となってくださっているんだと感激しました。
高校時代は、よく友達が家に泊まりにきていましたが、イエス様の同じように家にきてくださるお方です。
イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
ルカ19:5