欠如している言葉
ここ1ヶ月ほどで、自分を原因とする問題が多数発生していて自分の弱さや頼りなさを痛感する日々が続いています。具体的に反省できるところは改め、内省して自分のあり方を見直しています。日々、色々あったことや考えたこと、またイエス様との関係のことを書く中で圧倒的に欠如していた言葉があります。
それは、神の愛です。神の変わらぬ愛、神の永遠の愛、そしてそんな壮大で深淵で到達できそうもない概念が、実は一個人の中に具体的に現れるという奇跡ともいうべきことが起きるのです。
ブログを書いていると、喜びや平安や楽しみなど神様が与えてくださるものの中の副次的なものが多いことに気づきました。これらも神様が与えてくださる大切なものに変わりはないですが、最も大切なものは、神の愛にほかなりません。そして、この愛の中に、これらが包括されているのです。
信仰のはじめ
振り返ってみると、信仰生活のスタートはイエス様との個人的な出会いがスタートでした。こんな者でも受け入れてくださっている、こんな者でも気にかけてくださっている、何よりも、十字架での出来事が知識ではなく、「まことに自分の罪のためであった」と告白するに至る個人的な体験でした。
それはこの御言が強く迫ってくる体験でした。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
ローマ5:8
誰が不義理な者を愛するでしょうか?誰が犯罪者に対して無条件で罪を引き受けてくれるでしょうか?まさに人間わざではない、神の愛だったのです。
はじめの愛に帰る
だから、神様の愛に帰りたいと思っています。寂しいから、悲しいから、つまんないから、心に平安がないから、喜べないから主を求めることはとてもいいことだと思います。父が子が求めるものを与えてくださるように主は与えてくださるからです。
でも、ただ、イエス様の愛を求める祈りができればどれほど素晴らしいかと思います。イエス様の愛を求めて、そこに留まり続けることこそがまじりっ気のない純粋な神様への愛なのだと思います。
主を求むべき動機
愛はすべてを包括します。平安も喜びも楽しみも大切です。寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制も大切です。いずれも求めて追求し続けるべき徳だと思います。しかし、最も大切な律法はこれのほかありません。
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。
マタイ22:37-38
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
コロサイ3:14