定量化された祈りの時間
先日の日曜日は教会の奉仕がありました。そこで教えられたことを自分の反省も込めて書こうと思っています。定量化することは決してよくないのですが、僕はこの奉仕をするにあたって毎回最低3時間の祈りの時間を確保していました。この3時間というのは完全に自身の経験から出されたものです。朝6時起きて教会に行くまでに3時間は確保できるという都合もありました。
この定量化された基準は僕が意識しないうちに必ず守らないといけない一つのラインになってしまっていました。言い換えれば3時間は祈らないと自分の霊性は準備されないとか主は働いてくださらないかもしれないと思っていたのです。今から思えばそれは律法主義であり、恵みから漏れてしまっています。
突破できない状態
前日は21時には就寝して翌日は6時に起きて張り切って祈れるはずでした。しかし、起床後祈っていても、賛美していてもなかなか突破できない状態が続きました。そうこうしているうちに強烈な眠気がやってきて僕は1時間くらい寝てしまったのです。起きて焦りました。祈る時間がもう1時間半しかない。
僕は今日の奉仕はできないと思いました。自分の霊性も整えられていないし、何よりこの奉仕をするにあたっての主の御心が全くわからなかったからです。
肉はなんの役にも立たない
僕の祈りはこうでした。
「僕自身はあなたに仕えるやる気や気力もありません。今日は本当に何もやる気が起きないのです。しかし、もしあなたの霊が注がれるなら僕はあなたのために仕えることができます。」
そういった祈りをしてから、祈りが少しずつ開かれていくのを感じました。そして、神様が語ってくださった御言はこれでした。
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
ヨハネによる福音書 6:63
僕は祈りました。
「主よ。そのとおりです。僕の肉はあなたの前に何の役にもたちません。僕は律法主義や肉でやろうとしていたことをお許しください。そして、あなたの霊によってあなたに仕えることができるようにしてください。」
人を生かすものは霊
それから僕の魂は解放されたように感じました。祈り終わって先に教会に行こうと思いました。嫁さんにも触れ切って「もう今日は何のやる気もないわ。だからイエス様に助けてくださいって祈っていくわ」と伝えていきました。
当日の奉仕は、僕の弱さに主が現れてくださったことを感じました。僕の肉はどこまでいっても役に立ちません。僕の肉とは定量化された律法主義的なルールも含まれます。しかし、本当に人を生かすものは霊でした。そして、すべて主の恵みです。