無関心なクリスチャン
僕には人に与えられるものは何もないと思っています。仕事は対価として報酬をもらうものなので一方に与えるものではありません。じゃあ、親切な心でしょうか?会社に行くまでの通勤時間に速歩きでオフィスまで一直線している僕は本当に困っている人に対して親切にしたいのでしょうか?自分に疑問しかありません。人に関心があるかといえば、全くありません。できるだけ山の奥のほうで暮らしたいのが本音です。
よく愛の反対は無関心といいます。初めて聞いた時は、憎しみではないのか?と思いましたが、この場合の愛は慈愛の反対のことを言っているのだと思います。教会で愛を歌っている、ブログでキリストの愛を謳っている自分にその愛がないとは、もはやネタでしかないと思います。
あなた方の手で食物を
聖書には、5つのパンと2匹の魚の奇跡が記載されています。イエス様の奇跡により男だけで5000人もの群衆を満腹にしたというのです。弟子たちは何ももっていませんでした。捧げられた5つのパンと2匹の魚だけです。しかしイエス様はお弟子にこのように言いました。
するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい。
マタイ14:16
わずかな5つのパンと2匹の魚でお腹をすかした野郎5000人を満腹にできるはずがありません。しかし、パンと魚がイエス様の手に握られた時に、弟子たちは手で食物をやることができたのです。イエス様に必要なのはわずかなパンと魚だけでよかったのです。
命のパンを手に入れるために
別の聖書箇所にはこのようにかかれています。
また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、
さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、
裸の者を見て、これを着せ、
自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
イザヤ58:7
あなたのパンを分け与えなさいと書かれています。あなたのパンとは何でしょうか。イエス様はおっしゃいました。
「私が命のパンである」
そして、私に来るものは決して飢えることがなく、私を信じるものは決して渇くことがないともおっしゃいました。僕がせいぜいでいきることはイエス様のところに行って命のパンを頂き、それを分け与えることだけです。だから、たとえ、親切な心がなくても、無関心であっても、そういった自分を認めてイエス様のところへ行って命のパンを分け与えられる者になりたいと思います。
飢えた者にあなたのパンを施し、
苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、
あなたの光は暗きに輝き、
あなたのやみは真昼のようになる。
イザヤ58:10
イエス様のおっしゃる命のパンは、旧約ではマナ、つまり、霊的な食べ物です。これは霊的な戦いによって勝ち取らないといけないことは明白なので、祈るしかありません。