0214_思っている以上に自分が大好き人間

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相対的にしか見れない

人間の欲するところは結局は相対的なもので決まると思います。実家にいた時は何不自由ない生活をしていましたが、一人暮らしでミニマリスト生活すると、あれがない、これがないと困ることがあります。冷蔵庫、掃除機、炊飯器、布団などから細々したものまでないと不自由するものばかりです。ミニマリストを謳っていましたが、結局買ったものもありますが、手に入った時の喜びはこの上ないものでした。

現代は物に溢れかえっているので、こういった喜びを感じにくくなっていると思います。特にコンテンツだと、限りなく無料に近い金額で映画も動画も一瞬のうちに楽しむことができます。スマホ1台あれば暇することもありません。個人的に、今、現代人に必要なことはほとんど何も認知しない暇な時間であったり、身近な物を手に入れるささやかな喜びを感じることだと思っています。

それが人間の性質

ある本にこのようなことが書かれていました。ある人が肝臓疾患を持っている。その人はなんとかしてその病から逃れたい。つまり肝臓疾患が治ることを心の底から望みます。しかし、健康な人が自分が肝臓が健康だからと言って感謝し、喜ぶことはほとんどの場合ないでしょう。人間の欲するところは相対的であり、ないものを欲し、あるものには感謝することなく、当たり前のように感じてしまう。

自分自身を見てても全く同じだと思います。そもそも、人間には持っているものに本当の意味でありがたみを実感することはできないんだと思っています。おおよそ、持っていたものを失った時に持っていた時に初めて実感できる。人間はそういう性質なんだと認知するすと、いかにも自分は高慢な人間だと思えます。

いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
コリントⅠ4:7

自己中心だからこそ

また、人間は忘れる生き物でしょう。自分が人に「してあげたこと」はよく覚えているのに、人に「してもらったこと」はほとんどの場合覚えていないのです。いつでも、自分自分、自分が中心にあり、恩を忘れてしまうのです。僕自身は自分が大切で自分が大好きなどとは思ったことはないのですが、実は自分たちが思っている以上に、みんな自分が大好きなのです。僕に関して言えば、これまで多くの人に迷惑をかけて、助けてもらいながら生きてきたにもかかわらず、ここまでこれたのは自分の力だと思ってしまう、本当に高慢な人間だと思います。

聖書では自己中心的な生き方から神中心の生き方をするように教えています。実は自己が中心になっているからこそ、相対的に物事を見てしまうのです。もし、神中心、つまり、自分に死んで神と同じ思いで生きれたなら、どれだけの喜びを感じ、幸せを感じれるでしょうか。クリスチャンが私は自由になりました!と声高らかに宣言する時は、こういった古い自分に死んだ時なんだと思います。

もう古い自分に束縛されない。神に生きること。痛い道かもしれないけれど、徹底的に悔い改めて低くされる時にそれが実現されるのだと思います。