0409_沢村五郎先生の聖書人物伝を読んで

聖書人物伝

月に1回牧師先生と聖書の学びをしており、昨日はヨハネを学びました。テキストは沢村五郎先生の「聖書人物伝」です。この本は個人的にすごく思い入れのある本でもともと家にあり、母の所有物を繰り返し読んでいました。幸い、数十年前にいのちのことば社から再版されるというのですぐに購入しました。中国に3年行った時にも持っていったので、今はボロボロになっています。

沢村先生の聖書人物伝は鋭い考察もさることながら、格調高い文体、かつ読みやすいものであり、読むの者をひきつける魅力があります。明治から昭和後期の激動の時代を生きた先生のキリスト者としての気高い生き方が文章から伝わってきます。

肉的な性質

ヨハネの元来の性質は非常に人間的でした。それは肉的といえるかもしれません。彼はその資質からイエス様にボアネルゲ(雷の子)というあだ名をつけられたほどでした。福音書のあらゆるところに彼の元来の性質が書かれています。そこからわかることは、彼が短気であり、偏狭であり、野心があり、わがままな心をもっていたということでした。

そういった箇所を読むと、ヨハネに共感したくなるのですが、本題はここから始まります。彼が十字架のもとでイエス様の御わざを見た時、さらにペンテコステの体験をしてから、人間大改造のわざが始まってきます。

人は変えられる

ヨハネはイエス様の真の姿を鋭く見通す、捉える霊的な目を持っていました。4福音書の中でもヨハネによる福音書の冒頭1章は非常に特徴的です。イエス・キリストが天地創造よりおられたこと、そして、めぐみとまことに満ちていたお方であると書いています。

また、島流しにあっても、聖日を守り続け、これから起こることの預言をもらいました。それが新約聖書の最後にヨハネの黙示録として記載されています。これは旧約聖書のダニエル書以来の終末に関する預言で、彼がいかに主に用いられ、愛され、霊的であり、キリストに近い物であったかがわかります。

学んだこと

ここから学んだことが2つあります。一つは、彼は最後の老齢になるまでキリストに従い続けたことです。信仰生活は長丁場です。救われた時は喜びピークになってその後、その喜びや感謝が減衰していく傾向というのは認めざるを得ません。だから、下りエスカレーターを走って登り上がらなければならないと感じています。それは、自分の力ではどだい無理で、必ず燃え尽きてしまいます。しかし、主により頼むなら、鷲のように翼をはって昇ることができるのです。

ふたつ目は、雷の子、怒りの子であったヨハネが「友のために命を捨てる」ほどのイエス様の愛に満ち溢れていたことです。僕はヨハネの元来の性質にはおおいに同意するものの、じゃあ、「友のために命を捨てられるか?」との問には、Noとしか言えません。しかし、ヨハネはそれができるほどのとてつもなく大きなイエス様の愛に満ち溢れていたのです。

この御言は簡単な言葉ではなく、自分でできるようなことじゃありません。塩狩峠の主人公が実践したような生き方です。生涯をかけて、友のために命を捨てるという言葉と向き合っていきたいと思います。

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
ヨハネⅠ3:16

おっさん
■十字架とペンテコステの体験によって人間は大改造される望みを抱いている
■自分が満足するためではなく御言を実践するために主の愛に満ち溢れたい

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