自分の時間
僕が若かった頃は自分の時間がとても大切だと感じていました。時間は誰に対しても公平に与えられているものであり、時間の使い方次第で人生が決すると信じていたからです。誰でも時間を浪費することもできれば有効に活用することもできます。その積み重ねが人生の豊かさや自分の人格形成につながっていきます。
ですので、ここ数年間、僕は自分の時間はしっかりとっておいて、残りの時間を神様に捧げて奉仕するというような生き方をしていました。確かに自分の時間が増えると、勉強もできますし、トレーニングもできますし、銭湯に行ってゆっくりできたりといいことだらけのように思います。
霊の目で見る者
しかし、誤解を恐れずに言えば、信仰の生き方とは、一見無駄と思えるようなことにかけてみることなのかもしれません。無駄と思うのは肉の目で見るからです。聖書にはこのような言葉があります。
あなたのパンを水の上に投げよ、
多くの日の後、あなたはそれを得るからである。
伝道の書11:1
また現代の価値でおおよそ300万円近くの価値のあるナルドの香油をイエス様に捧げたマリヤの行為にも似ています。肉の目で見れば、ユダが批判したようにそれは無駄だ!というかもしれません。しかしマリアがもっている霊の目で見た場合、それは全く無駄どころか尊く価値のある栄えある行為だったのです。
実際にやってみた時に
僕はまだまだパンを水に投げるような生き方はできていません。まだまだ自分の分を自分にとっており、それを示して頂いてそれを手放す過程が必要だと感じています。
ただ、年度末から新年度にかけて教会の様々なことにコミットする中で、たとえ、自分の時間がないように思えても、肉は満足しなかったとしても魂や霊の領域で、言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びが心に溢れることを体験しました。
霊の目を研ぎ澄ませる
何度も言いますが、肉の目でみたら、そんなことに時間を使って何になるの?となるかもしれません。しかし、信仰によってイエス様を愛して進んでコミットするならば、神様は霊の領域で大きな恵みを与えてくださいます。
まだまだ肉の戦いはありますが、霊の目で神様に仕えていきます。