0492_主がおっしゃるなら

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仕事での出来事

先日、かなりメンタルがやられることがあり、かなり落ち込んでしまいました。仕事における自分の判断ミスがもたらした結果なので、すごく情けなかったです。もう36歳にもなってそれなりに案件は回してきたと思っていたのですが、完全にポカミスでやらかしてしまったのです。

今回のミスでは、自分は20代の頃から何も成長していないし、自分がこの市場で無価値のようにも思えてしまいました。この仕事を続ける資格があるのか、スキルがあるのか、反省を次に生かせるのか?などかなり悩みこんでしまいました。

プロジェクトからおりたい

もともとこのプロジェクトは開発会社が入れ代わり立ち代わりで、どこの開発会社ともうまくいっていないプロジェクトでした。スケジュールがトップダウンで厳しかったり、仕様が変わったり、発注書出す出す詐欺で急ぎでやって結局出ないなどがある会社です。

数日は、僕にはこのプロジェクトを回す自信もないし、適性もないので、減給でいいので、降ろさせてほしいと相談しようと腹に決めるところまで思い悩んでいました。ただ、長い時間寝たり、聖書の言葉を聞いたりする中で、「嫌だから辞める」というスタンスが神様の御心から外れていると感じるようになりました。

心に平安がない

僕はもうこのプロジェクトから外れたいと心に決めましたが、数日心に平安がやってこないのです。「えー神様、まだ続けないといけないですか?もうメンタルもたないです。」と葛藤が始まりました。「なんで時には理不尽に怒られ続けながら仕事をしないといけないのですか?」とも思いました。まったくうまく回せる自信がなかったのです。

しかし、仮に、僕がこのプロジェクトから外れた場合、次の誰かがこのプロジェクトを回さないといけなくなります。また新たにキャッチアップしたりする必要があるので、もっと大変になるかもしれません。

平安が来る時

僕がやっている仕事は窓口で仲介役のようなものです。お客さんからの感情もりもりの強烈な依頼を開発側に感情を入れずに冷静に伝える役目です。また時には怒られる役もしないといけません。

僕はイエス様が逃げずに十字架に立ち向かったように、僕も逃げることはできないと思いました。僕はなぜ怒られることを恐れているのだろう?と、なぜ、怒りの感情を受け止めて自分の中で処理することが嫌なのだろうか?と。いや、そうじゃなくて、その怒りは僕に向いているのではなくて、十字架でイエス様が受けてくださったんだとわかりました。

そう思った時に、乗り越える力が与えられるのを感じました。イエス様が助けてくださるなら、まだこのプロジェクトはできると思いました。僕自身はメンタル豆腐で、言語能力も拙くて、自信もなくて、なかなか伝達すらうまくできないのです。しかし、私が弱い時にこそ、私は強いという御言のとおり、主にあって強くなり続けようと思いました。

『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』
第二コリント12:9-10

おっさん
■主が辞めてもいいよとおっしゃったら辞める
■主が続けなさいとおっしゃったら続ける

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