1316_彼ら彼女は人生謳歌しているし救いを必要としていないのだろう

もし残り1%でも助けを必要としている可能性があるなら

昨日は、自身の失敗から白杖をもって歩いている方を見た時にもっと積極的に声をかけていこうと決めたと書きました。理由としては、僕が「きっと大丈夫だろう」と思っていても、その方は恐れを抱いていることがあるかもしれないからです。

仮に本当に大丈夫でお手伝いがいらない可能性がは99%である場合もあるかもしれません。しかし、もし残り1%でも助けを必要としている可能性があるなら、声をかけるべきだと失敗から学んだからです。

救いを必要としていないように思ってしまうことがある

そしてこの考え方は救霊に対する態度とも同じだと思いました。なぜなら、ともすると、僕たちクリスチャンはこの世の人を見て一見救いを必要としていないように思ってしまうことがあるからです。

僕は実際にこういうことを思ったことがあります。「見たところ、何の問題もなさそうだし、人生謳歌しているし、幸せそうだし、満たされていそうだから、彼ら彼女らは救いを必要としていないのだろう」と。

それは僕が伝道したくないから

しかし、それは僕が伝道したくないから、自分にそう言い聞かせているだけにすぎません。聖書の神は今も罪のゆえに苦しんでいる魂のために心を痛めておられるのです。それはこの御言に集約されています。

神は、その独り子を賜ったほどに世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネの福音書 3章16節

もし、僕たちクリスチャンが肉の目でこの世を見るなら、彼ら彼女らには何の問題もないように見えるでしょう。しかし、もし霊の目で見るなら、言い換えれば、天の父と同じ思いになってこの世界を見るなら同じように心が痛むはずです。

僕の信仰はまたもや宗教生活

そして、これは自分自身に言いますが、もし僕がこの世を見て心が痛まないのであれば、それは神様と共にいないということであり、神さまと共に歩んでいないという証拠になります。

その証拠が示すとおり、僕の信仰はまたもや宗教生活になってしまっていて、時々刻々と神様と共にいることから離れてしまっていると気づかされました。確かにここ数日は、仕事や家庭においても、態度には出しませんがイライラすることが多かったように思います。

一度は余計なお世話をするくらいのほうがいい

クリスチャンが「滅びゆく魂!」と熱くなっていても、クリスチャンではない人からしたら余計なお世話だと思われることがあるかもしれません。しかし、それであっても一度は余計なお世話をするくらいのほうがいいのだろうと思いました。

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