1886_祈りと聖書だけで十分か? | 知性の実を結ぶ(霊的な知識とこの世界の知識)

霊、身体、知性

僕はこの地上における人間の存在は霊、身体、知性が密接に相互作用しあっていると信じています。そのため、霊的な領域だけでなく、健康なものを食べたり筋トレをしたり、書籍を読んだりすることも十分生活に取り入れています。しかし、これらの土台になるのは霊です。

少なくとも僕の人生においては、霊が死んでいる状態では身体も知性もほとんどまともな実を結ぶことはありませんでした。僕が17歳の時に救われるまでは、無頼的に生きてきたので霊も身体も知性も疎かにしていました。

人生においてスランプ

しかし、救われてから変わりました。霊の目が開かれて霊を大切にするようにしたのです。特に聖書、祈りには積極的に重点的に取り組んだと思います。今暗唱している御言の半分ほどはこの時期に徹底に覚えたものだと思います。しかし、転機が訪れます。それは自分の人生においてスランプを感じるようになったのです。初めてそれを経験したのは2007年に北京に留学に行った時でした。

当初の僕は若く霊に燃えていました。しかし、偏狭な考えを持っていました。それは聖霊こそが大切であとはどうでもいいというような極端な考え方です。しかし、そういった極端な考え方では僕の勉学の実はほとんど結ぶことをしませんでした。それが知性も大切だと知った理由です。

この地上で生きるには

社会人になり、よりその傾向を感じるようになりました。霊だけではだめだ。実務ができないとこの世界では神の栄光を現わすことができないと思うようになったのです。もちろん、どのように神の栄光を現わすかは人それぞれです。しかし、僕は今のままではだめだと痛感し、より一層勉学に励むようになりました。

その結果、この世界で生きるのは以前よりも容易に感じられるようになりました。確かにこの地上で生きるには知識が必要で知性の実を結ぶことが要求されます。しかし、僕にはまだ欠点がありました。それは霊の知識の実を結ぶことに関してです。

霊的な知識

僕は知性においては、この世界の知識を重点的に吸収しました。しかし、こと霊においては祈りと聖書で十分だという態度をとり続けていたのです。しかし、その考え方も変わりました。それは、僕自身が遅々として変わらなかったからです。

それから、教派宗派問わず、古典的な霊的な書物などを中心に読むようにしています。特にカトリックの書籍を好んでおり、イグナチオ・デ・ロヨラ、ブラザー・ローレンス、アビラの聖テレサ、最近の人物ですと、アテフ・メシュレキーなどの書籍を読んでいます。

書籍から励まされることもあれば、実生活で知識が僕にリマインドしてくれることがあります。改めて、霊、霊的な知識、この世界の知識、身体を大切にして歩んでいきたいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)