1216_「満腹したから」イエス様を信じたに過ぎなかった

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巡航速度まで上げ続けるには

このブログを書いている目的はブログのサブタイトルのとおり「聖書の言で人生を巡航速度まで上げ続ける。イエス・キリストと歩む逓増する豊かな心の人生。」です。数年書き続けている中で確信にいたったことは、巡航速度まで上げ続けるには平日の信仰生活が重要であるということです。

僕は長い間信仰生活を送ってきましたが、そのほとんどを日曜日第一主義的な生き方をしてきました。これは僕の中では極端な書き方になりますが、聖日さえ守ればあとは自分の好きなように生きるという生き方でした。

ぎりぎりの生き方

そういった生き方は人生にどのようなものをもたらすでしょうか?まずはヤコブに手紙に書かれているように、そのすべての行動に安定がなくなります。なぜなら、神さまと自分のしたいこととどっちつかずの生き方をしているからです。

また、そういった生き方はぎりぎりの生き方になってしまいます。それは日曜日に礼拝で力を受けて、その力だけで月曜日から土曜日まで生きようとするものです。聖日の礼拝で御言を受けて100%元気になって、ほとんど5%~0%になって教会に駆け込んで再度翌週生きる力を受けるというものです。

混じりけだらけの信仰

僕は長い間このような生き方をしていました。「このような生き方がいいとは思わない霊的な渇望」と「これでもいいだろうという肉的な渇望」がありました。日曜日は気持ちを新たにして、平日も主と共に生きたいと決意するのですが、月曜の夜にはそんなことすら忘れてしまっているのでした。

このような生き方を本気で変えたいと思ってから4年ほど経過したと思います。その間、いろいろな方法を試しては失敗してきました。その理由は自分の力で自分を変えようとしていたからです。またまじりけのない純粋な動機で主を求めていなかったからです。

混じりけのない純粋な思い

今朝はヨハネによる福音書を読んでいて、5つのパンと2匹の魚の奇跡のところを読みました。この時、イエス様を信じた人が大勢起こされたのですが、その信仰は混じりけだらけの不純なものでした。群衆は「満腹したから」イエス様を信じたに過ぎなかったのです。そしてイエス様が彼らに自身の肉や血に関して語り始めると、群衆は「なんてひどい言葉だ」と言ってイエス様から離れていったのです。

これは僕にとっても耳の痛い御言です。それは、聖日礼拝で自分が満足することだけが目的になっているのではないか?と思ったからです。平日から何の混じりけのない純粋な思いからくる信仰であゆみ、ただ主だけを礼拝したい、感謝したい、喜びたいという動機で礼拝に望みたいと思いました。

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