自身の可処分時間
ここ最近ずっと日常の引力ということについて書いています。ここで書いている日常の引力とは決してどうしてもやらないといけない仕事や家庭のことなどではありません。なぜなら、それらは日常生活を営む上でやらないといけいないことだからです。
むしろ、それ以外の可処分時間をどの様に使っているか?というところに焦点を当てています。自身の可処分時間をどのように使っているかによって日常の引力に引かれているかどうかがわかります。
タイムマネジメント
タイムマネジメントでまず真っ先にゆわれることは「時間を記録せよ」ということです。自分が1日をどのように時間を使っているのか記録して客観的に見ないことにはタイムマネジメントはできないということです。
誰でも自分が思っている以上に意外なところで時間を使っているものです。だから客観的に見る必要があるのです。たとえば、iOS端末ではスクリーンタイムがわかるので自分がどれくらいスマホを触っているかがわかるようになっています。
頭で理解したとしても変われない
確かに記録して客観的に自分がどのようなことに時間を使っているのかがわかれば、それが行動を変容する場合があります。しかし、多くの場合続きません。なぜなら、人は知識(データ)によって動くのではなく感情によって動くものだからです。
知識は自分の行動や意思決定をサポートするのに有益ですが、それ自体が行動を変容してくれるわけではないと思います。こう書くのは自分自身がまさにそうだからです。どれだけ本を読んで客観的なデータが得られて、頭で理解したとしても、それだけでは変われないことを痛感してきたからです。
創造主に身を任せて
しかし、聖書の神は実際に人を造り変えてくださるお方です。なぜなら、神さまだけが僕たち一人ひとりを創ってくださった創造主だからです。まさに陶器士のように粘土を捏ねて意のままに造り直すことができます。
僕が信仰生活を送っていて本当に恵みだと思うことの一つはこれです。こんなことを書くのはあまりよろしくないかもしれませんが、この世界には比較的優れた遺伝子をもった人もいれば僕みたいに気性も荒く、資質、品性、人格いずれにおいても底辺というような遺伝子をもった人もいます。
主の前にあるまな板の鯉
しかし、僕はそれでも決して悲観的にならないし、絶望もしません。なぜなら聖書にこのようにあるからです。
この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ神によって生れたのである。
ヨハネによる福音書 1章13節
大切なことは主の前に降参して、主の前にあるまな板の鯉状態になることです。これは恵みであり、キリストにあって救われて造り変えられたこと以上に幸いなことはありません。