1217_聖霊をガソリンに例えるのは正確なのか?

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聖霊の満たし

僕はバックグラウンドがペンテコステ派ですので、聖霊の満たしを信仰生活の中心として歩んできました。主の前に出て祈るということが当たり前だったので、数時間祈り続けるということも当たり前だと思っていました。実際友達と30分遊ぶよりも3時間遊んだほうが充実感があるように、長く祈ったほうが聖霊の満たしを十分感じることができました。

これは決して長く祈ればいいということを言いたいわけではありません。しかし、正しい態度や動機で祈ることを前提とすれば、「少ししか祈らなければ少ししか力がない」と言われているように祈る時間と魂の充足感には相関関係があると思います。

聖霊はガソリン

ある集会でペンテコステ派の牧師先生が聖霊はガソリンだと比喩で話されていることがありました。これは車にはガソリンがないと走らないように、クリスチャンの生き方も聖霊の満たしがなければ歩むことはできないということです。「少ししか祈らなければ少ししか力がない」と言われているようにこのたとえは正しいと思います。

しかし、僕はある時期までこのたとえは本当に正しいのか?と疑問に思っていたことがありました。なぜなら、「主が共にいてくださる」というのは聖書の約束であり、その変わらない事実が量で測られることに強い違和感を覚えたからです。

そうは思っても

僕はその違和感を覚えてからは祈る時間が短くなったように思います。しかし、次第に祈る時間が短ければ確かに自分の信仰生活には力がないということも経験することになりました。確かに聖霊の満たしという側面ではガソリンに例えることは間違いでないと思います。

しかし、より正確に例えるのであれば、やはり人格をもった愛の神様と長い時間を過ごすという関係に例えたほうがより正確なのではないかと思います。最初にも述べたように、仲のいい友達と約束をして会って30分で解散となると物足りなさを感じると思います。祈りにおいてもそう思うのが霊的に正しいのだと思います。

人格をもった愛の神様との交わり

僕は長い間、特に祈りたくないけれど祈らないといけないと思う期間がありました。その理由としては、そもそも正しい態度や動機で祈れていなかったからです。イエス様を救い主として救われた者として神様との愛の関係の中に入るということが知識で終わっていて、体験できていなかったのです。

しかし、友人と何時間も話したり遊んだりすることで、理解してもらえたり理解したり、新しいことを学ばせてもらったり、新しい力を得ることができるように祈りとは神様との関係の中でなされていくものなんだと思います。

祈りに関しては、まだまだ道半ばですが、霊的な壁を突破してもっと深い神様との交わりに入りたいと強く願っています。

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