1901_幼子らしいこと | 愛の章に書かれていること

部屋に掲げた御言

最近、自分の祈りの部屋に掲げた御言があります。それはこの御言です。

コリント人への第一の手紙 13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

この御言の直前には愛について書かれています。この聖句は結婚式でも引用され聖書の中でも最も有名な聖句の一つでもあります。その聖句のあとで上記聖句が続き、さらに下記御言が記載されています。

コリント人への第一の手紙 13:12
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

幼子であることの解釈

僕はこれまで、この地上では誰であっても幼子であり、語ることも、感じることも、考えることも幼子らしく、前後の文脈から今僕たちがこの地上で持っている部分的な知識や理解は、将来の完全な理解が来た時に不要になるのだと理解していました。

そういった理解から僕にとってこの御言は特に印象に残ることがなかったのです。そのため、黙想することもなく一貫してスルーしていたのです。しかし、最近読んでいるリック・ウォーレンの「人生を導く5つの目的」に書かれていることを知ってこの御言の別の意味を知りました。

もう一つの解釈

それは「クリスチャンとして成熟する」という点です。そう理解した時に僕は別のステージに移行すべきだと明確に悟りました。僕はこれまで霊的な生活には祈りと御言が必要だと理解していましたが、まだ日常的に「主に触れられる」、「主に心を感動させられる」、「主の愛に触れて涙が出る」などの霊的な体験を求めているところがありました。

しかし、数か月前に改めて教えらえたとこは「キリストが心の内に住まわれる」という御言だけで十分であるということです。そして、その裏付けは聖書にもありました。

エペソ人への手紙 3:17
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

キリストが僕の心の内に住まわれるのは信仰によってなのです。つまり、深く感動したり涙が出たり感情に働きかけられることは、キリストが心の内に住まわれることの表れではないということです。

信仰

僕は正直まだまだ「信仰」という言葉についてそれほど理解できているとは思っていません。しかし、今回の体験を通して、信仰によって御言が活性化するということを知りました。

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