幼子らしいこと
昨日は下記御言から「幼子らしいこと」についての二つの解釈を書きました。ひとつはこの地上でのキリストについて知れることは部分的であり幼子であること、もう一つは霊的成熟を目指して幼子から大人になるということです。
コリント人への第一の手紙 13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
僕は後者の理解が今の自分に必要だと思わされ、この御言を掲げることにしました。
だって人間だもの
僕は救われてから今に至るまで確かに幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた者だと思わされたのです。自己中心的な信仰、不寛容な態度、「だって人間だもの」という甘えなどです。
つい昨年まで、満たされたい、恵まれたい、祝福されたい、喜びに満たされたいと思っていたのです。もちろん、これらは否定されるものではありません。主にあって満たされ、恵まれ、祝福され、喜びに満たされることは聖書的なことです。
悲しんでいる人
しかし、普通に考えたら自分の十字架を背負ってイエス様の足跡に従うという生き方は上記のようなものに限定されるはずがありません。むしろ、キリストとともに苦しみ、悲しみ、痛みの中を通る中にあって主を知るのです。それは、この御言の通りです。
マタイによる福音書 5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
幸いな人とは喜びを求める人ではなくて、悲しんでいる人というパラドックスなのです。僕は残念ながらクリスチャンになっても長い間、喜びそのものを求める生き方をしていたのです。
どうして?
そのような生き方とは二心の生き方です。主の喜び、満たし、恵み、祝福にはあずかりたいが、悲しみ、痛み、苦しみには与りたくない、つまり状況によって主を受け入れたり拒否したりする生き方です。そんな幼子らしい考えが変わり始めたの昨年からでした。
それは「どうして?」と主に問いたくなる状況の中で、主が「私と苦しみを共にしてほしい」と言う声をきいたからです。恥ずかしいながら、僕はその時まで自分はいつも主と共に生きていると思っていたのです。
幼子らしいことを捨てたい
僕は本当についこの前まで幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていました。しかし、今は幼子らしいことを捨てたいと思っています。その決を主が憐れんでくださって、大人へと成長させてくださることを祈っています。













