1903_幼子らしいことを捨てる | 霊的成長、デタッチメント、明け渡しに繋がる

幼子らしいことを捨てること

昨日に続き「幼子らしいことを捨てること」について書きます。僕は自分の祈りの部屋に下記御言を書いて壁に掲げています。

コリント人への第一の手紙 13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

毎朝、この御言を読み、音読し、幼子らしいことを捨てられるように祈っています。それは幼子らしいことを捨てることこそが霊的成熟だからです。幼子にはコリント人への手紙第一13章に書かれているような愛の行為をすることはできません。なぜなら、幼子は受けることが幼子らしさだからです。

幼子は受ける役

また幼子は、愛、喜び、平和、寛容、善意、忠実、柔和、自制といった御霊の実を結ぶこともできません。なぜなら、実とは成長することによってみのるものだからです。もしかしたら、ある人は「幼子にも愛はあるし、喜びもあるし、柔和だろう!」とおっしゃるかもしれません。

しかし、幼子の役割は「受けること」なのです。なぜなら、幼子がいる家庭では幼子を中心に生活が動くからです。確かに幼子にもそういった徳はあるかもしれませんが、それは受けるものでり、幼子が積極的に与えるものではありません。

「捨てる」という言葉

僕がこの御言で注目したのは「捨てる」と言う言葉です。つまり、自分で決断する必要があるのです。当然、人は安きに流れます。幼子らしく自己中心的に自己主張して、自分が楽しい方向へ行くのがいいに決まっています。だから、特に何も決意しなければそのままで終わってしまうのです。

霊的成熟の秘訣の一つは「捨てる」です。以前、デタッチメント(執着からの解放)について書いたことがありますが、その考えに類似していると思います。また、主に明け渡すという行為においても「捨てる」ことは欠かせません。

自分のためではない

さらにこの御言の下に僕は下記御言も張っています。

コリント人への第二の手紙 5:15
そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

僕の心にはいつも「お前になんかできるか!」とか「だって人間だもの!」とか「やっぱり自己中心的やん!」という声が聞こえてきます。しかし、僕はあえて鈍感になり、主のために生きると宣言していきます。

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