1075_普通に考えたら、羊飼は羊のために命を捨てないだろうと思っていた

羊のために命を捨てる

これまで下記聖書の言葉を当たり前のように読んでいましたが、一つ理解しきれていないことがありました。

わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
ヨハネ10:11

これはイエス様がおっしゃった御言です。イエス様は世界中の一人ひとりをその名で呼ばれ、関心をもち、気に留め、心に留め、愛してくださっています。それは命を捨てるほどの愛だったのです。だから、イエス様が良い羊飼いだということはわかります。しかし、イエス様ではなくても良い羊飼とは羊のために本当に命を捨てる者なのでしょうか。

羊より人の命のほうが尊い

僕が思った疑問はこうです。ようは人間の命は羊一匹の命よりも圧倒的に尊いです。羊一匹のために命を捨てる必要はないというのが僕の考えです。しかし、この点には多くの人が同意してくださるのではないでしょうか。スーパーにいけばラムの肉も売られています。その羊のために命をすてる人はきっと一人もいないでしょう。

では、なぜ良い羊飼は自分よりも圧倒的に価値のない羊のために命を捨てるのでしょうか。これは考えればとても当たり前のことかもしれませんが、この前電車に乗っていた時に「そうか!」と合点がいったので備忘録として書いておこうと思いました。

当時人としても見られなかった羊飼

イエス様の誕生最初の知らせは富裕層や中間層の比較的豊かな暮らしをしている人たちに対してなされませんでした。なんとその知らせは当時は人として頭数にも入れてもらえない羊飼になされたのです。当時羊飼は人口調査の対象にもならない存在だったのです。また当然、羊飼が飼っている羊は自分たちのものじゃありません。誰かの羊という資産を自分たちが預かって世話をしているだけなのです。

つまり、羊飼はもしその他人の資産である羊を損じたら、自分の命をもって償わないような状況であったのです。イエス様のたとえ話でもあるように100匹のうちの1匹がいなくなったということは、つまり、自分が主人に殺されてしまうということを意味します。

イエス様は羊飼

羊飼にとって、1匹の羊とは自分の命よりも大切なものであったということがようやくわかりました。イエス様は天の父の資産である全人類を救う使命がありました。だからこそこうおっしゃったのです。

わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
ヨハネ10:11

全人類の命をすべて合わせたとしても到底比べ物にならないほど価値があったのはイエス様の命のほうです。しかし、その尊い命を捨ててくださったのです。今日は電車の中で、この方のために自分はいったい何を捧げることができるのだろうと思いました。

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