0844_教会を変える判断に迫られた時

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教会を変える時

僕は決して自分で望んで教会を変えたわけではありませんが、今おかれている教会をとても愛しています。そして僕のバックグラウンドのすべてである母教会も同じように愛しています。祈りの時は、それぞれの教会のために祈ることは欠かしません。ある人たちは、僕のように人生の節目に教会を変えなければならない時があるかもしれません。

その時は受験勉強、就職活動、転職活動の時に祈った以上の祈りが必要でしょう。なぜなら、ほとんどの場合、教会次第で先数十年の信仰生活がある程度決定してしまうからです。重要なことは神様があなたに何を望んでいるのか?だけです。クリスチャンと教会の適材適所ができるのは神様のほかありません。

同じ教団だからという理由

だから、自分の意志で決めないことです。神様が語りかけを待ち、御言を待つほかありません。なぜなら、誤解を恐れずに言えば、教会生活は神様の導きや御言なしに送れるような生易しいところではないからです。教会に深くコミットすればするほど、見えてこなかった問題などが見えるようになってきます。もし、神様の導きや御言がなければ、人の言葉や人間的な出来事に躓いて信仰の破船に遭ってしまうかもしれません。

もちろん、大きな教団の場合は、全国津々浦々に関連教会があるので最寄りの教会へとなるかもしれません。それが最も自然だとは思います。しかし、こんなこと書いたら怒られるかもしれませんが、同じ教団だからという理由で選ぶのが必ずしも正しいとは思わないのです。

またまた、そんなこと書くなよと怒られるかもしれませんが、たとえ同じ教団に所属していても、それで霊的に均一的であるわけではないと思うからです。正直、教会はそこにいる牧師先生や兄弟姉妹の霊性にかかっています。だからこそ、自分の信仰生活がどの教会で育まれるかが重要なのです。

荒野での祈り

僕が過去に経験したこと少し書きます。僕にとって教会を変える時に荒野の祈りをしました。それは母教会から離れて荒野で神に近づくという時でした。それは文字通り誰も助けてくれない孤独の時間です。誰にも相談することもできない一人で神様に向き合う時間です。しかも、それが答えがないように思うほど長かったりするのです。しかし、神は決して荒野で僕たちを放置されるお方ではありません。必ずあなたの「約束の地」に導いてくださるお方です。

もし、荒野での祈りを諦めるなら、出エジプトしたイスラエルの民のように40年以上も不毛な期間を過ごすことになるかもしれません。なぜなら、最初に書いたように教会次第で先数十年の信仰生活がある程度決定してしまうからです。

この地上に教会ほど不思議で神秘的なところはないと思います。人間の集まりのように見えて、時に人間臭さで満ち溢れているようにも見えますが、しかし、神様が確かに働いておられ、恵みにも満ちていることろだからです。そして、教会ほど素晴らしいところもないと思います。

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