説教者として一番やってはいけないこと
昨日はCSの説教が終わりました。今回の説教でも僕自身が学ばせてもらいました。自分ばかりが学んで果たして若い人たちがイエス様に近づくためになる御言が語れているのだろうかとも思います。
これまでの経験上、明らかなのは説教する者として当たり前のことだと思いますが、自分が語りたいことを語った時は失敗です。しかし祈って主が語りたいと思われていることを語れた時はよしと思っています。
自分に死ぬことが優先される
そのため、説教の準備をする時にしないといけないことはたった一つです。それは自分に死ぬことです。なぜなら、自分に死なないと自分が語りたいことを語ってしまうからです。ここで一つ注意しないといけないことがあると思っています。これももしかしたら反発くらうかもしれないです。
それは、自分が語りたいと思っていることがたとえ聖書に記載されていることであっても、それが神様が今語りたいと思っていることとは限らないということです。
御言を語ることを禁じられた箇所
例えば、新約聖書の使徒行伝にはパウロがアジヤで御言を語ることを神様に止められたことが記載されています。
それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。
使徒行伝16:6
確かに神の御言を語ることは聖書的であり、聖書はそれを禁止どころか語るように命令しています。それは間違いなく神の御心であるはずです。しかし、実際的、かつ具体的な聖書の御言の適用においては聖霊に導かれる必要があるということです。
聖霊によらなければ
聖書にはこのように記載されています。
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
ローマ8:14
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
コリントⅠ 2:10
だから、僕は自分が語りたいと思っていることがたとえ聖書的であっても、自分に死ぬことを優先して、聖霊が何を語ろうとしているのかに耳を傾けて御言を語れる者になりたいと願っています。
訓練され続けたい
昨日のCSで果たして僕が聖霊の導きのままに語れたかどうかはわかりません。もしかしたら、自分の肉が残っていたかもしれないからです。それでも、徹底的に自分に死んで語ることをあきらめずに御言が語れるように主に訓練していただきたいと思いました。