擦れる前
僕は今の自分の信仰を見て非常にすれてしまったと感じています。その程度は、僕が学生時代にイエス様に出会う体験をした頃と比較するとより明確です。学生の頃は学業のこと以外はほとんどイエス様のことやイエス様に仕えることだけを考えていました。教会でもよく奉仕し、教会でも家でもよく祈り、霊的戦いの緊張感がある中で、日々、御霊に満たされて生きるような生活でした。
ところがどうでしょう。成長するにつれて、特に社会人になる中で何かを失ってしまったような気がしているのです。若者の性質である情熱的、純粋、一途などの信仰に関してよい影響を及ぼしていたものがほとんど失われてしまったのです。
なぜ擦れてしまったのか?
もちろん、感情や感覚に左右されない信仰や御言に基づく信仰は大人になるにつれて強化されていったと思っています。ただ、最も大切だと思えるイエス様に対する情熱や純粋さが失われてしまったことが僕にとって残念でならないのです。
学生時代は経済的にも精神的にも親の庇護下にあり、そういったことに頭を悩ます必要がなかったこともあるかもしれません。僕の父がよく言っていたことがあります。それが真実なのか、あるいは正しい表現かどうかはわからないのですが、父はよく「信仰だけではだめ」だと言っていました。父が言いたかったことは、おそらく、信じるだけで何もしないのは駄目だということだと思います。
理性と信仰
確かに祈るだけではだめなことが多いように思います。健康な体があるのであれば、祈るだけではなくやはり仕事を探して仕事をしなければなりません。また結婚相手を探すにしても祈るだけでなく、実際に行動に移さないと道はなかなか開かれてきません。また祈るだけでは福音を伝えることも困難です。語る者がいなければ誰もそのGOOD NEWSを知るすべがないからです。
大人になるにつれて、良くも悪くも理性が働くようになりました。信仰はできると宣言しても、理性が無理じゃねというのです。また常識、当たり前、これまではなどのワードも信仰を弱くしてしまいます。
主に望みをおく
人は成長し、成長し続けます。だから、過去の若かりしころの情熱や純粋さを追求するのではなく、次のステージに待っている成長を求めるべきだと思いました。聖書にはこのようにあります。すれてしまったことは事実かもしれませんが、主にしかできないことに期待します。
見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる。
イザヤ43:19