1220_奉仕前だけ祈って備えるというのを卒業しないといけないと思った

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自分にもたらされた副産物

昨日に続いて平日主と歩む生き方について書きたいと思います。平日も主と共に歩む生活になって自分にもたらされた副産物があります。それは以前から変えられたいと思っていた他の習慣も自然と変えられたことでした。

それは奉仕に対する態度や姿勢についてです。僕はこれまでCSの説教や礼拝の司会など比較的重要だと思われる奉仕の時のみ平日も主と共に歩むということを心がけていました。しかし、それは本当に奉仕がある週の1週間だけであり、そういった奉仕がない時は気が抜けて自分の好きなように生きていたのです。

だいぶ痛いクリスチャン

正直言うと、当時僕はまだ自身の罪に対して鈍感であったため、1週間も主と共に歩んで祈って備えて自分はよくやっているとさえ思っていたのです。だいぶ痛いクリスチャンだと思います。しかし、そういった一貫性のない信仰は自分の二面性を表しています。それは、イエス様に対して偽りの態度で仕えていたということです。

1週間祈って備えました!よくやった!というのはただの自己満足です。もちろん、クリスチャンとして成長する過程で少しずつ祈って仕えることを学んでいくのだと思いますが、僕はもう38歳なので、いい加減、奉仕前だけ祈って備えるというのを卒業しないといけないと思っていました。

奉仕を特別意識しなくなった

しかし、それは自分が罪から離れた時に自然にもたらされました。なぜなら、わざわざ重要だと思う奉仕を意識しなくても普段から主と共に歩む生き方をしているからです。平日からとりなしの祈りをしており、わざわざ、特定の奉仕のために意識的に祈らなくてもよくなったのです。

むしろ、平日に主に教えられたことが奉仕に生かされることが多いと思うようになりました。

明日罪を犯す弱さを持っているが

僕は主と共に歩む日々を決して誇っているわけではありません。なぜなら、昨日も書きましたが僕はいつでも自分が罪を犯してしまう弱さをもっているからです。今日罪を犯さなかったとしても明日犯す弱さを持っています。今罪を犯さなくても10秒先に罪を犯す可能性をもっています。それは否定のしようのない事実です。

だからこそ主により頼むしかありません。主によってでしか僕は罪に勝利することができないからです。

もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。 11:31永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。
コリントⅡ 11:30

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