0169_多様性のある祈り

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互いに祈り合うこと

色んな人と一緒に祈る時を持つことは何にも変えがたい貴重な時間です。初詣に神社にお参りに行く人たちも、おそらくお賽銭を投げ入れ、手を合わせて一人で祈るだけだと思います。同行した友人たちと祈り合うことはまずないでしょう。キリスト教にはお互いに祈り合うことや、とりなしの祈り(誰かのために祈ること)が教えられており、それ自体が神様の祝福でもあります。

何もしてあげれない、空間的な制約がある、もしかしたら、共に祈ることもできないかもしれない。それでも、一人で祈ることはできる。実際は一人ではなく、そこには聞き手の神様が共にいます。だから、祈れることは本当に幸いなことです。

個性的な祈り

最初は恥ずかしいながらも見よう見まね、真似て学ぶところから始まり、まずはテンプレートを身に着けます。次第に、聖書の言も織り交ぜつつ自分らしいお祈りができるようになります。人それぞれ、語彙も認知も理解も違いますし、その人自身が神様に向けて祈ることですから、一人として同じ祈りはありません。

共に祈る中で、面白いなぁと思ったことがあって、それは、祈り手のマインドが祈りに如実に表れるということです。きめ細かな配慮がある人は、お祈りの言葉選びも慎重ですし、誰が聞いても嫌な気持ちにならないような祈りをされます。僕はがさつで、配慮に欠けておりすごい雑なお祈りしかできません。ですから、そういった方の祈りを聞くとすごいなぁと思ってしまします。

大切なことは、下手でもいいから借り物の言葉じゃなくて、自分の言葉で祈ることだと思います。それが、偽りのない真実な祈りなのだと思います。

みんなで祈ること

その他、ストレートなお祈りをする人、魂の切なる叫びがすごく表れる祈りをする方などいろいろなタイプがあると思います。だからこそ、同じテーマであっても、みんなで祈る必要があるんだなと、合点が行きました。そして、人間はそもそも、一つなれるはずがないので、神の助けによって、一つとなって祈ることに神の栄光が現れるのだともいます。

自分なんか何の役にも立たないなど思ったとしても、誰かのために祈ることはできると思います。それがきっと自分自身の生きがいにもつながってくるのだと思います。

あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば人知では到底はかり知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリストイエスにあって、守るであろう。

アーメン。