1500_主に油注がれた者に手をかけること

主に油注がれた者

最近は通読でサムエル記下を読んでいます。ここから多くの学びを得ることができました。一つはダビデのサウルに対する徹底した態度です。サウルはダビデの命を狙う者、いわば敵でした。しかし、ダビデは自分の命を狙う者を敵としてはみていませんでした。

彼はサウルを「主に油注がれた者」としてみていたのです。そして、その行動規範に従って行動しました。彼は2度もサウルを殺すチャンスを得ましたが殺すことはしませんでした。それは「主が油を注がれた者」だったからです。ダビデは確かに主を畏れて生きていました。

大きな代償

ある時、サウルは敵の手によって致命傷を負います。サウルは味方にとどめをさすように依頼して死んでしまいます。そして、そのとどめを刺した見方も自害してしまうのです。それを見ていた者がダビデのところに報告に行きました。彼は自分がサウルのとどめを刺したとうその報告をします。

彼はそのように報告することで、ダビデが喜ぶと思ったのでしょう。理由としてはいつくか考えられます。サウルが敵に苦しめられて殺されないようしたという言い分や、ダビデの命をずっと狙っていたサウルを殺しましたということでダビデから褒美がもらえると思ったのかもしれません。

しかし、ダビデの目からすれば、「なぜ主に油注がれた者に手をかけたのか?主を畏れないのか?」にありました。そして、その者は殺されてしまったのです。

指導者に対する態度

では、この箇所を現代に適用するとどうなるでしょう?現代で「油注がれた者」と言えば牧師先生や牧師婦人など指導者だと思います。日本の教会の信徒はダビデのように指導者を見ているでしょうか?残念ながら現代の教会では指導者に対して批判的で、失礼な態度をとる人がいるのも事実です。そういった態度はダビデの生き方とは全く違います。

僕は恥ずかしいながら未熟であった時、指導者に対してそう思った時期がありました。それはいわば「主に油注がれた者」に対して手をかけるようなものだと思います。そのような時期、僕の霊的な状態はますます悪くなる一方でした。

指導者のために祈る

一つの原則があると思います。それは指導者、牧師先生、牧師婦人を軽んじる人は主の祝福を受けられなくなるということです。しかし、逆に毎朝の祈りの中で指導者のためにとりなしの祈りをする人は祝福されると思います。これは経験上そう思っていることですし、冒頭のダビデの行動規範とも一致すると思います。

もし、祝福されたいなら指導者のために祈ることです。指導者を批判するなどはもってのほかです。と自分に言い聞かせておきます。

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