引照付き聖書
高校生から真剣に聖書を読み始めて以来、最近初めて引照を参照しながら聖書を読んでいます。引照とは引照付き聖書にのみ記載されてものになります。僕が使っている聖書アプリには同様の機能はないので、おそらく紙版の聖書にのみある機能なのだと思います。
引照付き聖書にはある特定の言葉にアルファベットのマークがついており、そのページの下のほうに同様の用語が使われている他の聖書箇所が記載されています。これを利用すれば特定の言葉が他の文脈でどのように使われているのかがわかるので理解が深まるというわけです。
酒に酔っている
例えば、先日はサムエル記上を読んでいた時にハンナが一人で神の前に心を注ぎだして祈っている箇所を読んでいました。そこでは彼女は口から言葉を出していなかったが、口が動いていたようです。それを見た祭司のエリは酒に酔っているのだと思ったと書いてありました。
ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。
サムエル記上1:13-14
この「酔っている」という言葉の横にアルファベットが記載されていて引照表記からたどると、なんと使徒行伝で弟子たちが聖霊に満たされて酒に酔っていると勘違いされた箇所の酔っていると同じ言葉だったのです!
祈る時の一つの状態
これは何を意味しているのでしょうか?聖霊に満たされる、つまり神様と深い交わりの状態に入ること時の現象の一つとしてそうなることがあるということだと思います。ハンナは主との深い交わりの中に入ってから、もう悲しい顔じゃなくなったと書いてあります。彼女は神の深い愛の中での満たしを経験したのだと推察されます。
ハンナは心のうちで物を言っていただけで、唇が動くだけで声は聞こえなかった状態で聖霊に満たされていたというのが僕の目が開かれたところでした。実際インドの聖人と言われているサンダーシングは祈りの時に一言も声を出さずに神との深い交わりの恍惚状態に入ると何かの本にも記載されていました。
聖霊に満たされる時に異言が伴う
僕のバックグラウンドはペンテコステ派にあるので、聖霊に満たされる時に必ず異言が伴うというふうに教えられてきました。そして実際僕自身が高校生の時に初めて主に出会った時に自分でも止められないほどの異言の体験もしました。これは確かに僕の魂で起こった事実で否定のしようがありません。
しかし、それ以降、自分でも止められないほどの異言を語るというようなことはほとんどなくなり、むしろ、ハンナのように心のうちで物を言っていただけで、唇が動くだけで声は聞こえなかったのような状態で主と交わるのが多くなったと感じています。
神が語らせてくださるもの
僕は異言を否定しません。むしろ、これからまた異言を語るシーズンがくるのかもしれません。それは僕が決めることではなく、また僕が無理くりそれっぽいことを語るのではなく、主が語らせてくださるのであれば語らせて頂きたいと思っています。