什一に関して
先日、自分の中ですごい罪深さを覚えることがありました。什一に関してです。どちらかといえば本音で言っても僕はお金に執着しないタイプの人間です。会社でも給料をあげなくていいから休みをもっとほしいとゆっているくらいだし、副業に時間使うくらいなら、青空の下でゆっくり読書でもしたいと考えるタイプです。
誤解を招くような表現になり不快に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、正直、教会への献金や什一は「安い」と思っています。そもそも、安い、高い云々じゃなくて、神様にお捧げするなので、そういった基準で言うのはふさわしくないかもしれません。
神様にお捧げするもの
さらに、世俗の娯楽を比較するのも良くないことですが、礼拝1回あたりの満足度は映画1回観るのと比べ物になりません。
それは当然です。映画は人間の目の欲や精神に訴えかけて、それを満たすものですが、礼拝は人間の魂に訴えかけるものだからです。そこで、神との霊的な交わりがなされるので、霊的な満足度で言えば、映画一本観るのと比較にならないのです。
が、しかし、先日、僕の心に什一が惜しいという気持ちがやってきたのです。それは自分にとって比較的高い買い物をすることになったからです。時間をかけて貯めたお金がまとまった金額なくなるだけでなく、今後もコンスタントに支出が続くことが想定されたのです。
自分の中で聞こえた声
心にこのような声が聞こえてきました。「什一って高くない?」や「什一やらなきゃ今回の出費も余裕だよね」という声なき声が聞こえてきました。正直、そういうふうな声が聞こえてきたこと、つまり自分がそう思ったことに自分でもショックを受けましたし、何より心が揺れる気持ちになったことに神様に申し訳ない気持ちになりました。
しかし、先日の礼拝で神様が僕に語ってくださったことは、コリント人への手紙にある「あなたが持っているものでもらっていないものがあるのか?」ということでした。
すべて頂いたもの
確かに、僕が今持っている物はすべてイエス様が与えてくださったものだと思いました。救われる前も、救われた後も、すべて神様が導いてくださっていて、すべてを与えてくださったのです。それを、アホな僕は与えて頂いたものを「惜しい」と思ったのです。神様の前に悔い改めました。
心が揺れて惜しいと思ってしまったことも、イエス様は責めることなく、御言で語りかけてくださいました。そして、与えてくださったのは心の平安です。お金の心配はしなくていいし、この方により頼めば安心・安全だという確信がやってきました。