0602_今日も主にあって、目の前の人に素直に謝れる人にしてください

悪魔のせい

先日Youtubeで説教を聴いててとても納得のいったことがありました。クリスチャンは往々にして、特に聖霊派に多いのかもしれませんが問題が起こった場合に悪魔のせいにする傾向があると思います。

それは集会の中で、宣言型の力強い祈りに現れます。例えば、「今、主イエスの名によって宣言します!私たちを縛る悪しき力から私たちは解放されました!」や「主イエスの名によって命じる!悪魔の妨げは打ち砕かれました!」などです。

問題の解決はどこに?

エペソ書に私たちの戦いは血肉に対するものではなく、天上にいる悪の霊に対する戦いであると書かれている以上、こういった祈りは正しいと思います。ただ、知らなければならないことは、こういった祈りによってすべての問題が解決されるわけではないということです。

Youtubeの説教で語っておられたのは、私たちを縛っている問題は「愛によって解決する」ということでした。わざわざ、悪魔のせいにしなくても、私自身が謝れば解決することもあります。あるいは、私自身が誰かを赦すことによって解決することもあります。

愛がないことにより縛られる

僕たちが縛られる領域は心の領域です。それは人間関係の中で縛られてしまうのです。あの人を赦せない、あの人を愛せない、あの人に謝りたくない、あの人を受け入れたくない、などです。これは実に愛の問題です。

イエス様は福音書に書かれているとおりに、もれなく、すべての人を愛されました。自分に敵する者を愛されました。クリスチャンは、『「彼におる」という者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。』と書いてあります。

愛がないとは?

僕たちはクリスチャンといいながら、どれほどの人を愛せてないでしょうか。
僕はよく言います。「あの人が悪いんです。」、「あの人の考え方が悪いんです。」と様々な理由をつけて赦そうとしなかったり、謝ろうとしなかったりするのです。

もし、僕が人を愛することをせずに、主に祝福や恵みだけを求めているなら、それは大きな勘違いであり、間違った信仰です。だから、毎日このように祈りたいです。

今日も主にあって、目の前の人に素直に謝れる人にしてください。
今日も主にあって、目の前の人に心から赦せる人にしてください。

おっさん
■主イエス様は赦せない・謝りたくないという心の縛りからも解放してくださる

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