教会との切れ目が縁の切れ目か?
以前、教会で仲良く遊んだり、共に奉仕をしたりした人たちとなかなか会えない日々が続いています。僕自身が仕事で他の地域に行ったこともありあますが、コロナ禍が追い打ちをかけています。会えていない人の中には今は教会に行っていない、あるいは行けていない人もいますが、そういった人と変わらずずっと連絡を続けられるのはとても幸いなことだと思っています。
メールでおすすめの信仰書を読み合って感想を交換したり、祈りの課題を教えてもらったりできる仲間がいるのは幸いです。また、信仰の話はしなくても、たわいもない興味の話をしたり、ギフトを贈り合ったりできるのもすごく幸いだと思いました。向こうが僕を覚えていてくれていることと、僕も向こうを覚えていることがつながりを強く感じさせてくれるのだと思います。
教会にいる側の態度
周りを見ていると金の切れ目が縁の切れ目じゃないですが、教会との切れ目が縁の切れ目になっているパターンをよく目に見ます。僕は超絶弱い人間なので、1人で信仰生活は送れないので、教会生活が必ず必要だと思っていますが、教会から離れてしまうこと、つまり、イエス様から離れることではないとも考えています。
教会にいる側と教会にいない側が存在する場合、ともすると、教会にいる側は教会にいない人を「助けてやらねばならない弱い存在」と考えてしまうことがあるのではないでしょうか。実際、僕自身そのように考えていました。しかし、そのような態度から出る僕の口の言葉は、上から目線になっていたのです。
実際、本当にその人とイエス様との関係はわからないものです。教会生活も大切ですが、日々の生活の中で、福音的な生き方をしているかどうかは、当人にしかわからないのです。
主がとりもってくださる
確かに神の家族は霊でつながっているものだと思います。神の家族は霊により一致して前進することができます。年齢も背景も趣味も全く違う人達が、召されて教会に集い一致できるのは御霊の働きです。御霊によって、深い愛を感じることができます。それは兄弟が和合しているのは麗しいという詩篇の言葉のとおりです。
しかし、教会との切れ目が霊の切れ目じゃないと信じたいです。むしろ、僕たちの真ん中にイエス様がいてくださって、とりもってくださり、天の父の愛の中に満たしてくださると信じています。