0933_主が共にいてくださっているというのはどういうことなのか?

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今はどういうシーズンか?

主とお出会いしてからもう20年ほどが経過します。その間、主と共に歩んでいるという実感がある時もあれば、もしかしたら自分の気持ちや考えを優先してしまっているのかもしれないと感じる時もありました。出会った当初や自分にとって課題が多かった時は主により頼んで主のご臨在の体験が多かったように思います。

一方で確かに自分の考えを優先している時や無自覚で主以外のものを優先している時もありました。そして今は僕にとってリハビリのシーズンです。主と共に歩むことがどういったことだったのかを思い出しつつ、また学んでいます。

たとえ聖人のようでなくても

先日思ったことは「主が共にいる」からといって、僕自身が聖人のようにあらゆる刺激に対して寛容でいられるという状態になるわけではないということでした。その時、僕は確かに主がともにいてくださっていることを実感していました。しかし、その時に僕は人を見てイライラしてしまうことがありました。

その時に思ったのが、主は僕がイライラしていても共にいてくださっているということでした。そして、僕はすぐさま主に「イライラしてごめんなさい。あなたのような寛容な心をください」と祈ることができたのです。

自分が主のほうを向く

主と共に歩むということは、こういうことなんだと思いました。自分は確かに不十分なカケだらけの存在です。聖書が要求する基準を少しも満たすことができない罪びとにすぎないのです。しかし、そんな時に自分を見ずに共にいてくださっているイエス様を見るという生き方がともに歩むことなんだと思いました。

ともすれば、クリスチャンは意外に「主は共にいてくださる」という言葉に甘えて、自分のほうは主と歩みたがっていない場合があるのかもしれないです。主と共に歩むことの大前提は、まず自分から能動的に主体的に率先して主のほうを向くことです。

そして、その時々に必要なことを主に仰ぐのです。ある時は悔い改めに導かれ、ある時は試練の中を通されることもあるかもしれません。また癒しを体験し慰めを与えてくださることもあるでしょう。

何を見て何を聞くか?

ここ数か月は主と共に歩むことを優先して、スマホを触る時間をコントロールしたり、いつも見ていたニュースサイトを見ないようにしたり、SNSから離れたりする工夫をしています。これらのことを実践して改めて思うのは、「時間はある」ということと結局「僕が主を求めていなかっただけ」ということが明らかになりました。

日々、自分の見たいこと聞きたいこととの戦いですが、主と共に歩むことを選択し続けたいです。

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