0934_主が栄光をとられるなら、僕は恥を大いにかくことを誇りとしよう

今年は訓練の時

個人的に今年は教会での奉仕が多くなり訓練の時としてその時を用いています。時には土日のほとんどが教会での奉仕などで埋まることもありますが、絶対に不平不満は言っていません。本当に不平不満を言っていないかは嫁さんに確認しないといけないのですが、「不平不満を言うくらいなら奉仕はやめたらいい」という考えなので、しんどいとかだるいとかそういったネガティブなことは言っていないはずです。

むしろ、適度な緊張感ととりなしの祈りの機会などを与えられているので、今年の半年でだいぶ自分自身が成長したような気がしています。主の使いやすい器になるべく、できる限り早く成長できればと望んでいます。

礼拝司会の奉仕

先日はある礼拝で司会をしました。司会は御言を語りませんが、祈りの時間があります。僕は毎回そこで主はこの礼拝で何を望んでおられて、何をしようとされているのかを祈り求めるようにしています。司会は人前に立つ奉仕なので、少しでも自我で出ると人を見てしまって主の御心とは到底離れたことを祈ってしまう危険があることを知っています。もちろん、聖書的にぐっとずれたことを祈ることはないと思いますが、主が何を語られたいのか?を祈らなければなりません。

いつもはだいたい、聖書を読んでいたり、暗唱聖句をしていると「この御言だ!」というのが示されてその御言をベースに祈りを組み立てます。といっても紙に書き出すのではなくて、個人的な準備の祈りの中で膨らましていくのです。

確信がない状態

ただ先日は「この御言だ!」というのがないまま当日を迎えました。一応、ぽい御言は握っているものの、これが本当に主の御心なのか、確信はありませんでした。まったく御言を中心に祈りの内容がまとまっていない状態で、座席で祈ってると、その時主がこう語られたように思いました。

「あなたはまだ人を見ている。あなたは格調高い祈りをしたがっている。」

確かにそうだと思いました。僕は「人を見ている」と思いました。そして主の前に悔い改め、なんの御言も握らずにステージの講壇の上に立ち司会を始めました。「人を見る必要はない。ぐだぐだになったときはその時だ。恥をかくのは僕。栄光は主のもの」と思いました。

主にゆだねるということは

それから司会の祈りの時間になったとき、主が祈りを導いてくださるのを感じました。その時に御言も与えられました。僕は本当に主にゆだねてよかったと感じました。主にゆだねるということは怖い時もあります。しかしこわいと感じるのは失敗や恥をかくのを恐れるという自分がまだ残っているからです。

僕は今回のことを通して、主が栄光をとられるなら、僕は恥を大いにかくことを誇りとしようと思いました。

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