0179_愛は味覚を超える

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ストーリーで美味しく感じる

皆さんには嫌いな食べ物があるでしょうか?僕は偏食はないほうですが、米から抽出した酢を使った料理だけが苦手です。自分から進んで食べることをしませんが、食べられないほどでもありません。誰かの家に招かれて出された場合は絶対に食べますし、あまり好きじゃないかなぁとは思いつつも、健康的な物を食べる事によって、体が喜びますし、作って頂いた方も喜んでくださるので、感謝して完食します。

実は感じる味覚には絶対はなく、自分次第で作りだすことができるのです。よくある有名な話に一蘭というラーメン屋の話があります。一蘭では業界先駆けて、コロナ前から、カウンター味集中システムというものを導入していました。カウンターが一席ずつセパレートされた座席でラーメンを食べるスタイルです。その座席に座ると、スマホを触る以外は誰とも喋らず、ただ目の前にある一杯のラーメンと一蘭ラーメンのこだわりが書かれた広告しか目に入りません。この広告を読むと一蘭というラーメンがいかにこだわった一杯なのか、ストーリーを読むごとにラーメンへの解釈が代わり味覚が脳でも美味しく感じることができるのです。

すべての物を美味しく感じる方法

中国にいた時は、なかなか試練がありました。うさぎの肉や鶏の足や蛹の揚げ物や臭豆腐(すごく臭い食べ物)やドリアン、へびなどなど。。。ただ、見かけやニオイがどうであれ、すべて感謝して食べました。不思議なことに感謝して食べると美味しく感じるものなのです。相手の文化を受け入れる、相手が喜んでくれる、ただそれを思うだけで美味しく感じれるのです。以前、読んだ書籍に下記のようなことが書かれていました。

出された料理を食べないことは作ってくれた人を拒否することになってしまう。

西洋人は白黒がはっきりしていて、好きなものは食べる。嫌いなものは食べない。という人が多いようです。その理由は「心の中ではまずいと思っているのにおいしいということは偽善になる」と考えるだからだそうです。確かに個人的な経験においても、教会にくる外国人宣教師などは日本固有の食べ物を食べない人が多かった思います。わざわざ、チキンを用意したり、スープやビーフなど宣教師が好きそうなものを用意していました。一方、僕は相手を思う気持ちは偽善を消失させ美味しいと感じさせることができると思っています。

飽食の時代にあって

アレルギーなど体質などの理由以外での好き嫌いは、飽食の時代に生きているからです。きっと、大岡昇平の「野火」でも読んだら、何でも美味しく食べれるようになるでしょう。食べたい時に食べれる感謝を感じるには想像を働かせるか実際に自分をそのような状況におけばすぐに分かります。僕は学生時代に自転車で京都から滋賀県まで行って琵琶湖を一周して帰ってくるというのを1日でやったことがありますが、あの時の空腹の苦しさは今もまざまざと思い出せるほとです。

聖書にいるイスラエルの人も、あるものを飽き飽きした食べ物と言ったものがあります。それは、天から降ってくるマナでした。荒野にいるイスラエル人を超自然的な方法で養う神の恵であるマナに飽きてしまって不平不満を神様にもらしたというのです。

翻って自分を顧みた場合、毎日、神様の恵にどれほど感謝しているかを問われています。以前はどうだったのか?罪人だった時はどんな生き方をしていたのか?それを思い出しつつ、与えられるイエス・キリストというパンを食べて生きていきたいです。

義を追い求め、
主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
イザヤ51:1