肉を無力化して霊を活性化させる
僕の造語で好きな言葉があります。それは「肉を切らせて霊を恵まれさせる」というものです。言葉の精度は高くないのですが、ここぞという時に僕の信仰を奮い立たせてくれる言葉です。別の言葉では、「肉を無力化して霊を活性化させる」とも言えると思います。
この造語の背景にはこの御言があります。
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
ヨハネの福音書6:63
人が生かされ永遠に残るもの
聖書の言こそが人を生かします。そして、肉の欲や満たしは人を生かすことはないのです。それらは残るものではなく過ぎ去るものだと聖書にあります。
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
ヨハネの第一の手紙 2:16-17
しかし、聖書の御言だけが人を生かすのではありません。救われた者は主に仕えることができますが、主に仕える時にも霊は生かされるのです。それは教会で奉仕をしたことがある人なら誰でも体験したことがあると思います。主に仕える時、人は生かされ、それは永遠に残るものなのです。
肉が疲れる
しかし、霊的な奉仕といえども、インターフェイスとして肉体は必要であり、精神も使います。そこで、奉仕の準備をする時に、遂行するときに「肉が疲れる」という状況が生まれます。その時にもし「疲れた~」というだけなら、肉にもっていかれてしまいます。
そこで、確かに疲れているかもしれませんが、冒頭の言葉「肉を切らせて霊を恵まれさせる」を宣言することによって視座が高くなり霊が燃やされるのを体験するのです。肉は疲れさせてもいいのです。大切なのは霊が恵まれることです。
霊は肉を包括している
ある人は肉の欲も大切だと言うかもしれません。しかし、霊はある面、肉を包括しています。僕がこのようにいうのは、実際霊的に恵まれている時に食べる食べ物は安いものであっても大変おいしく感じるからです。霊的に恵まれる時に味覚が研ぎ澄まされて、本当においしく感じるのです。
だから、やはり霊至上主義として「肉を切らせて霊を恵まれさせる」というスタイルで信仰生活を送っていきたいと思います。