祈りは至福の時?
僕の母教会の先生は本当によく祈る人でした。先生はよく「祈ることほど至福の時はない」とおっしゃっていました。僕はその時、確かに僕にとって祈りは恵まれる時だし、なくてはならないものだと思っていましたが、「至福」とまではいえないと感じていました。
もちろん、初めて主にお出会いした若かりし頃は、時間を見つけては祈っていましたし、一人で山に祈りに行くほど祈りが好きでした。しかし、今では、たとえ祈りが苦行や義務とまは思わないまでも、自分にとって至福の時じゃなくなっていたのです。
至福とは
至福と聞くと、おおよそ、美味しいものを口に入れた時、絶景の広がる温泉に浸かっている時を思い浮かべます。祈りとはそういった満足感と安心感、キリスト教用語でいうと、満たしを与えてくださるものです。
祈りとはキリストのとの一対一での交わりです。すべてに満ちたお方と祈りを通して交わる時に、魂に休みが与えられ、平安が与えられ、愛で満たされ、至福の時が訪れすのです。
主と同じ思いになる
最近の僕は、祈りは至福とはまだ言えないかもしれません。しかし、祈りが以前にもまして好きになりつつあります。それは、主が祈りを聞いてくださることを体験したからです。それは決して自分の自己中心的な祈りを聞いてほしいわけではありません。主と心一つになる時に、主の御心で祈り求める時に主はそれを聞いてくださるということを体験したからです。
それは僕にとって大きな体験でした。そうか、主と一つになる時に主の心がわかる。そして、主と同じ思いになることが祈りなんだと思いました。
共感すること
それは人間も同じかもしれません。人間は共感を求めています。自分がこういうことを考えていて、それに共感してくれる人がいた時は心に大きな慰めと安心がやってきます。神様はもしかしたら、自分の御心に共感してくれる人を探しておられるのかもしれません。
もちろん、それは元来の人間にはできません。なぜなら人間はどこまでいっても自己中心的な存在だからです。しかし、主の霊に満たされて主の思いになる時に主に共感できる存在になれるのじゃないかと思いました。
これからは
これまでは自分のために生きてきました。自分のやりたいこと、見たいこと、聴きたいことを求めて生きてきました。しかし、これからは主の主の御心に共感し、そして、それを祈り求める者になりたいです。