救われてから数年後
最近思っていることがあります。それは救われてから今に至るまでの想像もつかないほどの主のご忍耐とご愛に関してです。僕は救われた当時、主にお出会いし価値観が決定的に変えられる体験をしました。また礼拝の中でも主の深いご臨在を体験し、実生活でも主の現れを経験するなど大きな恵みにあずかりました。
しかし、信仰を実生活に適用していくバランス感覚が未熟であったこと、律法主義に陥ったこと、感覚主義に陥っていたこと、古い生活の引力に負けてしまったことなどが原因で1年、2年と経過する中で当時の情熱や熱心さを失うという過程を経ました。
ああ、物わかりのわるい{僕の名前}よ
聖書にも書かれています。それはパルロのガラテヤ人に対する叱責です。
ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
ガラテヤ人への手紙3:1-5
このような主のお声が聞こえてくるのです。
「ああ、物わかりのわるい{僕の名前}よ。十字架につけられたイエス・キリストが、{僕の名前}の目の前に描き出されたのに、いったい、だれが{僕の名前}を惑わしたのか。~{僕の名前}は、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。」
接点を持ちたくて仕方がない
僕が思うことはこれです。それは僕が17歳時に救われた時点で主はすでに僕の心が数年後に離れることをご存じでした。しかし、主がそれを知ったうえでご自身を僕に表してくださり、愛してくださったのです。これは想像を絶するほどの神の愛です。
会社で人を採用するとして、誰かが数年後に裏切るとわかっていてその人を採用する人がいるでしょうか。裏切るならそもそも接点を持とうとしないでしょう。しかし、天の父の神の愛は違います。僕たちと接点を持ちたくて仕方がないのです。なんという大きな愛でしょう。それゆえに御子を惜しまなかったのです。
「主よ、あなたのご愛とご忍耐に心から感謝します。そして、終わりがくるその日まで主から離れず共に歩み続ける者とならせてください。」