おなかがいたくなるよ
先日こどもとお風呂に入っていた時に考えたことがありました。それはこんなことがあったからです。子供はよく湯船のお湯を飲みたがります。小さなカップに入れて飲む真似をする分にはいいのですが、時々、わざと本当に飲むことがあります。それを見つけた時にこのように言います。「そんなばっちいののんだら、おなかがいたくなるよ。びょういんにいかないといけなくなるよ。」
しかし、子どもは聞いているようで全く聞いていません。「ごめんなさい」ということもなく反省の色を示さないのです。これまでにこういったやりとりは何度もあったのですが、やはり響かなかったのです。
うそだと思っている可能性
その時に思いました。これは想像です。もしかしたら、こどもはこのように思っているのではないかと思ったのです。それは、「これまでこそっとお風呂のお湯を飲んでも、おなかが痛くなったことはなかった。病院に行く必要もなかった。」
つまり、僕たち親が伝えている「そんなばっちいののんだら、おなかがいたくなるよ。びょういんにいかないといけなくなるよ。」という言葉はうそだと思っている可能性があるのではないかと思ったのです。
確かに、現時点ではおなかは痛くなっていないかもしれません。しかし、お風呂のお湯には様々な菌があるので、体に悪いことは間違いのない事実です。これは迷信でもなんでもありません。しかし、こどもにとったら、現時点で大丈夫だから大丈夫と思っている可能性があるのです。
神様の御心を軽んじるのか?
こう思った時、僕は恐ろしくなってしまいました。なぜなら、僕は大人になってからもこどもと同じように考えていたことがあるからです。それは、「聖書はこう言っている。しかし、こうやっても何も害はない。だからいいのだ。」という理屈です。
現時点で問題が顕在化していないからといって将来問題がおきないわけではありません。何より問題が起こる起こらないの問題ではなくて、神様の御心を軽んじるのか?軽んじないのか?の問題だからです。僕は大人になってから長い間、聖書のある言葉は守るけれども、ある言葉は軽んじる、つまり、律法の一つをやぶったのならその全体を破ったのと同じという生き方をしてきました。
害あるなしは問題ではない
害があるなしは問題ではなく、聖書がこう言っているからそれに従うこそが重要なのだと思いました。そうでないと、自身に害がなければ何をやってもいいというような信仰になってしまいます。そんなことを思いながら、僕は果たしてこどもに言える立場なのか?と思わされました。