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見えないお方を見えるように生きる
信仰的な生き方とは、見えるところによらないで、見えないことをあたかも見えているかのよう生きることだと思います。それは簡単に言えば、目に見えない信仰の完成者であり、導き手であるイエス・キリストを見ているように生きることです。
第一ペテロにはこのような美しい御言が書かれています。
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
ペテロⅠ1:8
信仰的な生き方とは自己暗示や盲信や思い込みや希望的観測などではなくて、実際に体験している言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びがあるものです。
そのお方を知る
たとえ、今が暗闇であったとしも、また絶望的な状況であったとしても、あるいは、可も不可もないような生ぬるい状態であっても、聖書にある主の約束を握って、それが確実になされると信じる生き方が信仰的な生き方です。しかし、そのためには今も生きておられる神様が実際にどのようなお方であるのかを知る必要があります。
誰かから聞いた話ではなく、自分自身でこのお方を知る必要があります。それについては、ヨブが神様に出会った体験をこのように書いています。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
ヨブ記42:5
ヨブは神様の前に正しく、信心深く生きていましたが、過酷な試練を通して自身が取り扱われ、主に出会う体験をします。
神と向き合う
僕が都合のいい生き方をしていたときは、本当の意味で主を体験することはありませんでした。もちろん、礼拝や聖書を読む時に主がおられることを感じたり、励まされたりすることはありました。しかし、自分が取り扱われない限りは深く主との交わりはできていませんでした。
取り扱われるとは、自分の中にある蓋を閉めて見ないようにしている悪習慣や神に喜ばれない思いを直視することです。そして、それに対して僕自身が何を選択するかが問われるのです。先日は、二心の者とかきましたが、神様も求めているが、この世も求めているという生き方でした。
余計なものが剥がされていく
しかし、祈りの中で、自分の中にある汚い不要なものが剥がされていく時に、これまでとは違う主との深い交わりを体験しました。今までは祈るにしても聖書を読むにしても、自分側からの力が必要だったのですが、自然とどこでも主に向き合えるようになりました。通勤電車の中、お風呂の中、ふとした時、一人でいる時に、神様との交わりを体験することができるようになってきたのです。
今年のGWもしっかりと主と向き合って力をいただきたいです。