1484_サウルに対する神の賜物と召しとは変えられてしまった

サウルに関して

今は通読でサムエル記上を読んでいます。サムエル記上の前半はサウルに関する記述が多くあります。サウルは初代イスラエルの王という誇り高い立場を得ましたが、あっという間に王位を退けられることになります。それは彼に原因がありました。もしかしたら、彼は霊の人ではなく主の取り扱いもそれほど重要視していなかったのかもしれません。

まず、サウルにサムエルに油が注がれる場面ですが、彼は意外にもサムエルのことを知りませんでした。彼はサムエルに対してサムエルはどこにいますか?

そのときサウルは、門の中でサムエルに近づいて言った、「先見者の家はどこですか。どうか教えてください」。
サムエル記上9:18

新しい心

その後、サウルは油注がれたのちに聖霊に満たされるという体験をします。これにより彼の古い心は取り除かれて新しい心が与えられました。また彼の上には霊が激しく下り預言者たちと共に預言したとまであります。彼は確かに主の選びの器であったのです。

サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。
サムエル記上9:9-10

しかし、その後、聖書に記述されているものでサウルが活躍する場面はそれほど多くありません。むしろ、不可解な行動をしたり、主の御言に従わないという行為をもってついには主に見捨てられてしまうのです。最たるものは燔祭と酬恩祭を捧げるという越権行為をしました。これは神を恐れていない証拠です。またある時には兵士に食べ物を食べてはいけないという謎のルールを強制して民からの理解を失うということもありました。

神の賜物と召し

しかし、ここで疑問がおこります。それは新約聖書にあるこの御言です。

神の賜物と召しとは、変えられることがない。
ローマ11:29

結論から見れば、神の賜物と召しとは変えられてしまったのです。それはなぜでしょうか?それにはいくつかの理由があると思います。一つは悔い改めの原則からはずれたこと。また彼が肉の人であったこと。そして、彼は意外にも主と共に歩むことをしていなかった可能性があるということです。

彼は失敗をする度に何度も言い訳をしました。つまり、彼には主を畏れて主に悔い改めるということがなかったのです。また彼は神の目よりもいつも人の目を見ていました。その一方でダビデは悔い改めの人であり、また彼は常日頃より主と共に歩むということをしていました。

今主と共に歩んでいるか

これは僕にとっての大きな教訓です。「時々刻々と、今主と共に歩んでいますか?」これは日々自分に問いかけています。

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