0640_生まれて始めて本格的に商業主義的なクリスマスを過ごして

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商業主義的なクリスマス

僕は昔から商業主義的なクリスマスの過ごし方が好きじゃありませんでした。例えば、ケーキを食べたり、チキンを食べたり、さらにはクリスマスプレゼントを贈り合うという習慣などです。本当のクリスマスは一見とても地味に見えるが、見えないところに栄光が輝いているのです。

イエス様がお生まれになった馬小屋こそがそれを現しています。しかし、救主を待ち望んでいた人たちは普通の人達が見えないものを見ていました。それは、何もできない、ただただ抱かれて泣くことしかできない赤子だったのです。そんな最も小さいものに救いを見たのです。

そんな見えるところは地味なクリスマスと商業主義的で見えるところだけが明るく輝いているクリスマスが対比的で好きになれなかったのです。

商業主義的なクリスマスも悪くない

もちろん、別に商業主義的なクリスマスを嫌悪しているわけでもありません。人それぞれで、それでいいと思っていました。ただ、今年は人生初のかなり商業主義的なクリスマスを過ごしました。プレゼント交換こそしませんでしたが。クリスマスケーキを食べ、チキンを食べ、ショッピングに行ったりしたのです。

最初は「自分のスタイルじゃない」というので乗り気じゃなかったのですが、日曜日の朝礼拝をしている時に、相手の好きな過ごし方と同じように過ごし、そして時間をともにしたいという気持ちが与えられました。

本当にそうだと思いました。「自分が好きじゃないから」やらないのじゃなくて、相手が喜ぶ過ごし方を僕も選択できると思いました。

しっかり過ごした商業主義的なクリスマス

かくして、クリスマスケーキを食べ、チキンを食べ、ショッピングを楽しみました。行列に並びもしました。しかし、それがとても楽しく感じられたのです。イエス様は殺されるためにこの地上に来てくださったのに、僕はこの世のものを楽しむなんてとんでもない、とも思いませんでした。与えられたものを感謝して受け取り、それを楽しもうと思ったのです。

僕は生まれてからずっと与えられすぎていると思って生きてきました。そして、今も与えられてすぎています。会社でも来年度の給料の話し合いがありましたが、すでにもらいすぎているので、十分ですとしか言えませんでした。

最大の喜びはイエス様

与えられる資格もないのに、受ける資格もないのに、こんな者に目を留めて頂いて、何よりも救って頂いて、イエス様には言葉に尽くせない感謝しか溢れてきません。与えられるときも、たとえ与えられないときでも、また取られることがあったとしても、このお方にずっとついていきたいと思うクリスマスになりました。

「主の御霊がわたしに宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、
囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
ルカ4:18-19

おっさん
■イエス様こそが主の恵みの年を告げ知らせてくださったお方

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