日本人は祈る民族
おそらく、多くの人は自分の限界を感じる時や自分の力ではどうしようもできない問題に直面した時に神に祈るのではないでしょうか。それがたとえ命をかけて祈り求めるという温度感ではなくても、何かに祈ることによって心の慰めを得たりできるのではないかと思います。その証拠に日本人は毎年大勢の人が初詣に行きます。また受験間際には多くの親御さんが受験の神様にお祈りに行きます。
それは、日本人には「年始には神の前に出て祈るもの」という習慣があり、ずっと続いているからだと思います。八百万の神というように日本人にとって神はごく自然な存在で親しみやすい存在でありつつ、第一にするべきほどに大切なんだと思います。
祈る姿は美しい
時々道を歩いていると、街の片隅に隠れるように置いてある神に手を合わせて目をつぶって祈っている人がいます。そういった人を見るたびに、それがたとえ、僕が信じている神とは違ったとしても、なにか美しさを感じるものです。
人が神により頼み祈る姿は美しいと思います。それは人間が弱く、卑しく、限界があり、最後は土に帰るというはかない存在であることを認めているからだと思います。さらに、自己中心を乗り越えて、利他的に平和や正義を求める心があるからだと思います。
もし祈らなくなったら
ただ、そんな人間も平和とか正義とかよりも、他人のことよりも自分のことばかり考えるようになるとそういった美しさを失ってしまいます。もし、人間が神に頼らなくなってしまったら、いよいよこの世界はどうなってしまうのかと不安を覚えることもあります。
日々、歩む中で自分の弱さを感じたりしない人はもしかしたら、神を必要としない人なのかもしれません。しかし、誰であっても、もし、今自分を守ってくれている「環境」がなくなってしまうなら、人はいつでも「落ちてしまう」ものなのです。
今は環境に守られているだけ
それは、第二次世界大戦のときに上官の命令に従ったナチスの兵隊などを見るとわかります。彼らとて家に帰ったら家族のいる一人の父であり、一人の母であったのです。今は比較的平和な世界で生きられているからこそ、落ちていないだけで、人間はどこまでいっても自己中心的なので、なにかのはずみで落ちる可能性があるのです。
そのことを認めるだけでも人間には神が必要だと思わされます。そしてそれは心の慰めを与えてくれるだけの神ではなくて、実際に人間の中に働きかけて、人間を造り変えてくださる神が必要です。
僕も、今は環境によって守られているから落ちていません。しかし、環境はどれだけ悪くなっても神とともに歩み続けて神が落ちないようにしてくださるように祈っています。