0290_死んだ場合、無に帰すのか?

人間死ぬと

死んだら人間はどうなるのか?などを真剣に考える人はほとんどいないように思います。資本主義が命じるように、そこに市場があるから、ただ懸命に働いて富を築けばいい。それに勤しみ、消費主義の煽るライフスタイルこそが、幸せな生活と思い込んでいるように思います。

死んだら無に帰せたらどれだけ楽だろうか?と思ったこともあります。無に帰すと信じると一部の人達は自滅的な行動に出るかもしれません。「もうこの人生は詰んだ。あとはもう自らもろとも他人も道連れに破滅行為を行おう」と。しかし、聖書には、「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている〜(ヘブル9:27)」とあるように、死んだら無に帰すとは書かれていません。さばきとは、つまり、この地上での生活の決算が行われるのです。

永遠の命の幸い

子供の頃からキリスト教に親しんでいましたが、たとえ死んでもキリストによって与えられる永遠の命によって天国に行けるという教えが全く嬉しく感じれないときがありました。しかし、それはイエス・キリストとの出会いにより完全に変わりました。以前はおそらく、この意識がそのまま永遠に引き継がれると思っていたから恐ろしかったのかもしれません。例えば、罪悪感や自己に対する嫌悪感がある意識が永遠に引き継がれるのは誰でも恐ろしいでしょう。しかし、キリストが約束している永遠の命は、一方的な恵により罪が許された者たちに約束されているので幸いです。

そして愛の関係にあるイエス・キリストとの永遠の命を喜ぶのです。聖書の詩篇の作者はこのように言っています。「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。詩篇(27:4)」。またパウロはこのようにも言っています。「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。(ピリピ1:23)」

救われた者の魂は無に帰すことよりも、イエス・キリストと共にいることを望むようになるのです。

人間のよみがえり

では、どのようにして、無に帰すことなく、死人のよみがえりがあると信じれるのだろうか?と思いますが、それはイエス・キリストを信じればすべてが解決します。なぜなら、イエス・キリストご自身が死人の中から蘇った方だからです。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
コリントⅠ15:20

初穂として蘇った方は、キリストを信じる者をも永遠の命の恵に与らせてくださると信じます。裁きから逃れられるようにしてくださった方は神の子なるイエス・キリストだけです。