0639_クリスマス・イブに与えられたプレゼント

少し忙しいクリスマス

今年のクリスマスは久しぶりに少し忙しかったです。以前は12月に入ると毎週のようにクリスマス関連イベントが重なっていて気づけば年末というような状況でした。ただ、コロナが流行してからは軒並み教会のイベントの数も規模も縮小されたので、「忙しくない」クリスマスを経験するようになりました。

ただ、感染状況に合わせて感染対策をしつつ、形式を変えることによって少しずつ以前のようなクリスマスを取り戻しつつあると感じました。

ずっと心にあった御言

僕自身にとって今年のクリスマスはどうだったか?というと、最近ブログにも書いていたようにコリントⅠ13章の御言がずっと頭からはなれませんでした。昔は現在に増して、品性も人格も劣っていて、僕の心の中は目も当てられないほどの残念な状態でした。

しかし、聖霊の助けにより、また御言によって少しずつマシになってきている気がしています。以前は、割とそつなく奉仕ができたほうだったので、奉仕が終わった後はもれなく高慢になっていました。「自分はできるから」とか「自分は祈っているから」神様に祝福されているんだと大いなる勘違いをしていました。

神の愛の力

しかし、聖書の御言にあるように神の子はそんなこと思うはずがありません。愛は高ぶらない。誇らないのです。もし奉仕を通して祝福されたなら、それは自分が祈ったからじゃなくて、「そこに神様が祝福したい人がいただけ」です。もし、自分の能力や祈りの時間などによって神様の祝福が変わってしまうなら、それは恵みから漏れてしまうことになります。

だから、今年のクリスマスはこのように祈りました。「どうか恵みの中で奉仕できますように。」もし、恵みから漏れてしまうと、「自分ばっかり」とか「なんであの人たちは」とか不平不満が出てきたりしてしまいます。

イエス・キリストこそ

しかし、もし本当に神の愛に満たされているなら、その愛は決して高ぶることがありません。また誇ることがありません。さらに苛立つこともないのです。前に立つ奉仕でもひと目につかない奉仕でも、あるいは、緊急で誰かの代わりに奉仕をすることになったとしても、神の愛があれば、すべてが恵みだと思って神に使えることができるのです。

聖霊の助けによって御言によって、自分自身が高ぶらない人間に少しでも変えられてとても嬉しかったです。イエス様が最大のクリスマスプレゼントであることに変わりはありません。イエス様が心の中に来てくださることにより、自分自身が変わりイエス様が祈りを聴いてくださり、ともにいてくださることを体験させていただいたことが僕にとって大きなプレゼントでした。

すべての人を救う神の恵みが現れた。
テトス2:11

おっさん
■イエス・キリストを心にお迎えする時人は変わる

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