0839_主のために何をしたかではなく、主とどうあるか

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主とどうあるか

先日は奉仕をするにあたって祈り備えることは何よりも重要ですが、神様が働かれることはそれに必ずしも依存しないということも書きました。すべては主権をもっておられ、主のご意思で、主の愛によって主が働かれ、触れられ、出会われ、人が救われ、人が変えられていくのだと思います。

しかし、少なくとも僕は非常に罪深い人間で、自分の祈った時間やコミットした時間があるからこそ主が働いてくださっていると大いなる勘違いをしていました。実際は「やったこと」じゃなくて、主と「どうあるか」が大切なんですね。

周りの祈りの力

さらに、今日思いました。実際これまで多くの奉仕をしてきて、奉仕を通して明確に主が働いてくださることも体験してきました。しかし、それはすべてその教会での祈りが積み上げられており、先生をはじめ兄弟姉妹の祈りがあるからこそのものだったのだということを30代後半にしてようやく悟りました。

どうしてもこれまでの自分は、「自分の祈り」に栄光を帰そうとしていました。自分は祈っていることを誇っていたのです。しかし、そんな態度からでる祈りは全く大切ではなくて、本当の祈りとは主から与えられる愛から出るものであり、それは全く神の御心とはかけ離れたものだったのです。

自分が周りになる

大切なことは「主とどうあるか」です。そして、自分が置かれている教会やそこにいる兄弟姉妹に感謝し、愛することこそが神様の御心なのだと思いました。もし、誰かの奉仕が、周りの人達の祈りによって大きく祝福されるのであれば、僕はそのことのために祈りのコミットをしたいと思いました。

決して自分の奉仕のためだけに祈るのではなく、奉仕表にのっている先生、兄弟姉妹のためにもっと時間をとって祈りたいと思いました。それには必要なものが2つあるように思います。

必要なこと

それは信仰と本心から出ている愛です。それは僕自身には到底沸き起こってこないものです。だからこそ、今、自分を無き者として、無価値の者として、へりくだって、心を静めて主の前に心を注ぎだして祈りたいと思います。

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