0060_リング上の表現者は悪役になることも厭わない

ここ数ヶ月、プロレスラーの長州力さんのオフィシャルTwitterが話題になっています。アカウント開設後、わずか3ヶ月ほどでフォロワーが45万人いるので人気ぶり健在です。今では、僕の憧れだったプロレスラーもYoutubeオフィシャルチャンネルを開設していて、リング上では見られない姿が見れるようになりました。

僕が中学生の頃、プロレスにハマっていた時は、週刊プロレスと深夜に放送されるワールドプロレスだけが唯一の情報源でしたので、SNSでレスラーの日常が知れることで、ぐっと距離が縮まった気がします。

華やかな入場、鍛え抜かれた屈強な体、空中を舞う巨体、圧巻のマイクパフォーマンス、会場の空気を読みつつ繰り広げられる試合の攻防、絶望的な状況からの巻き返しによるカタルシス、観客を喜ばせる表現者としてのプロレスラーは、今でも憧れの存在です。

プロレスは八百長だと言われる方もおられますが、プロレスは格闘技ではなくて、あくまでもエンターテイメントです。優先されるべきは試合に勝つことではなくて、観客を喜ばせ、会場を盛り上げることです。リング上では喧嘩のようなことをしていますが、みんないい人です。

僕の理解によると、プロレスラーは繊細で、自己犠牲を厭わないリング上の表現者です。会場の雰囲気や観客の感情の機微を感じ取り、試合を運びます。時には相手の技を受け、時には関節技の苦痛に甘んじ、時には悪役を演じ、時には負けることも厭いません。

数年前に棚橋選手が主演されている「パパはわるものチャンピオン」という映画も公開されており、そういったプロレスラーの一面が描かれていました。

イエス・キリストも罪人として数えられることを厭いませんでした。十字架で死んで敗者と言われることも厭いませんでした。自己犠牲を貫き通して、十字架に至るまで従順に歩まれました。天の父の御心を行うために来られました。繊細で涙を流されることもしばしばあり、慈愛と憐れみに満ちたお方でした。

すべては、わたしたちすべての者を愛するがゆえです。

そして、3カウントを取られて負けてしまったと思いましたが、イエス・キリストは3日目に復活し、圧倒的な勝利をもたらしたと聖書に記載されています。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
ピリピ2:6-11(口語訳)

SNSでプロレスラーが身近に感じるよりも、あなたは私にとって身近なお方です。